2020-03-04

誕生日からろくに日記を書いていなかったので、さてなんか書くか、と思って今これを書いているが、困ったことに書くことが見当たらない。それでもとりあえず筆を進めてみる。
とりあえず、今日の奥さんとの会話を反芻して、そのことについて私見を述べておくことにしよう。

僕とmzfkさんが今の会社を抜けた後、事業の縮小を余儀なくされた僕の父が窮地に立たされ、結果的に莫大な借金を負い、その肩代わりを長男である僕が負うことになったら、どうするのか。奥さんの問いはこうだった。
僕は「助ける」と即答した。絶対に義務感からではない。もし救済が義務だと僕が感じているのであれば、僕は逆に「助けない」と言ったと思う。義務を常に意識しながらすることの、なんと不毛なことか。
今の父の姿がまるっきり反面教師であることも、調子に乗りすぎていることも、すべて、彼自身の罪ではないと、心のどこかで僕は信じている。世にたくさんある多種多様な罪が、ひょっとした隙に彼の心に忍び込んだに過ぎないと、そう感じている。
あまりにお人好しな考え方であることは重々承知しているし、それに第一、これはどうにも偽善っぽい。事が起きていない今この段階でそんなことを喋ってるのは滑稽だと見ることもできる。
けれど、たとえば、人が人を見捨てたら。子が親を見捨てたら?後に残るのは何だろう。僕が父を見捨てたら、その時、彼の心に忍び込んだ罪は本当に彼のものになって、彼は余命を贖罪のために捧げなければいけなくなる。そして、そういう風に彼を追いやった、人を見捨てた、という罪に、僕も苛まれることになる。
良心の呵責をあらかじめ避けているのではない。ただ僕は、人が困っていたら、手を差し伸べるのが当然だと思っている。転んで擦り傷を負った人があれば、大丈夫ですかと一言声を掛けてやることぐらい、当然だと思う。そしてそれは、義務感から生じるものであってはいけない。
好きな人は助けるが、嫌いな奴は助けない。こう言葉にされると、なんかこうぐっと否定したい気持ちが湧く気もするが、しかし現実、そういう人の方がむしろ普通だとされている。人が困っている、その一点にだけ集中すれば、そこに自分の意志を介在させる余地など無い筈だ。好きな人も、嫌いな人も、平等に困っているのなら、持っているパンを均等に分割して、分け与えてやるべきだ。事実、社会はそうして成り立っているではないのか。