チョコレートを頬張りながら

雪が降った。
寒さの根拠が雪に定着した気がして、これで安心して寒がれると変に胸を撫でおろした。雪も降ってないのに寒がるのは、冬生まれとしてはなんだか頂けないので。
書き始めたはいいものの、日記として書くこととしてはこのぐらいしかない。いつか、雪の降らない冬ぐらい、このブログの存在意義も無くなってしまうのかしらん。淋しい。

『苦しみ』と題した記事を公開してから、いろんな人からリアクションをもらった。あとビビるぐらいアクセス数が増えた。人間関係、というのは誰にとっても耳目を集める話題らしい。
手紙は一応書き上げて、あとは清書をするばかりとなったが、今のところは一旦自分を落ち着かせている。手紙を渡す、という結論は既にあるものとして、今はまだ行動とそれがもたらす結論、その間にある整合性についてずっと検討している。世間から僕を見れば、自分は間違っている。だから内側から自分を見れば、自分の選択は常に正しい。この慢心にも似た意味不明な感覚を、手紙によって打ち壊してしまいたいという、別の欲求も湧きつつある。
奥さんのことを考えれば考えるほど、僕は嘘をつき通すべきなのだと思う。実際、多くの人がそうやって生きているのだし、きっと慣れてしまえばそれまでなんじゃないかとも思う。しかし。
奥さんの価値観の中で生きるのであれば、僕は金輪際新しい人間関係を築くことが難しくなる。相手には「家庭があるので(奥さんがこう言うので)」と言って誘いを断らざるを得ず、奥さんには「相手がこう言うから」と言って、あなたの言う事を一番に遵守します、といった雰囲気を出しておかなければならなくなる。
そしてひとりの時間も持てない。別に毎日くれとは言わないが、週に一日ぐらい、ぼーっと思索に耽る時間が欲しい。「ひとりの時間が欲しい」という台詞は、奥さんにとって「あなたと一緒に居たくない」に聞こえるそうだ。

インターネット上の生活と、現実の生活。どちらに重きを置くかなんていうのは個人の尺度によりけりだと思うけど、僕は人と触れ合うという観点から見れば、どちらも大差はないと感じている。『たかがインターネット』、大勢の人の意識はまだそこに根付いているように思うが、現実にネットから死者が出ている以上、それはほとんど現実と地繋がりのように思う。たかがと馬鹿にするのは、2020年ではもう古い。

すべては方法次第なんだろうか。それをずっと考えている。僕は理想主義すぎて、方法を軽視しすぎているんだろうか。器用に生きることを何か、嘘と共にあることのように考えているが、実はそうではないのか?僕が最も大切にしているのは魂だが、それそのままじゃ脆すぎるか?そうだ。
僕はきっと究極を求めすぎているんだと思う。夫婦、そう、この二文字で表せる生活を、僕は何か曲解しているのではあるまいか。世間から見てみれば、僕たちの生活は何の不和も無く、順風満帆そのものである。優しい妻と優しい夫、互いを労り合う関係。これが正解か?本当にこれが正解か?正解か?正解とはなんだ?僕の根底に流れているものはただ愛で、愛とは、何も求めず何も与えず、何も奪わず育まず…つまり、「受容」そのものだ。妻の根底に流れる愛は、何かを求めまた与え、時に奪い時に育み…つまり、「示せる」ものだ。僕はそうして、何かが形を持つのが耐えられない。窮屈だ。
――はい。これが愛ですよ。――あ、左様ですか。示せるとは思いもよらず。
彼氏、彼女、妻、夫、そんな軛が何になる。僕は頭がおかしいのか。誰にも答えを求めないから、誰も僕に答えを教えない。ただ独りで僕は挑む。

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