アガペ

昨晩、奥さんにすべてを話した。

友達が2人出来たこと。うち1人は女の子で、連絡を取り合っていること。いずれ僕を含めた3人で会って遊ぶ約束をしていること。とても気の合う仲間だということ。
嘘をつき続けるのはもう、苦しいこと。貴方にもその人たちを紹介したいこと。僕を僕として見てほしいこと。
真実。戦慄。謝罪。拒絶。信用。受容。奥さんは、僕を僕として見ることを約束してくれた。
僕の書くもの喋ることを通じて、いろいろな人と知り合いになるのも、また連絡を取ることも、許してくれた。けれど、その場合に於いても、僕は僕であるということを忘れてはいけない。僕は男じゃない。だから相手のことも、女とか男を超越した個人として見なくてはいけない。もう僕は嘘が僕を憚ることに恐怖を覚えなくて良い。肩書が僕を縛ることに、発狂しなくて良い。僕は僕として、まだ見ぬ貴方との邂逅に胸を躍らせることを許された。
「なぜこんな人間を受け容れてくれたのか」と聞いた。彼女は、「貴方が好きだから」と言った。僕は少し泣いた。喜悦が僕の心をくるむその時、そこには確かに悲哀の影があった。愛は、愛とは、定義できるものではない。それは歩み寄ること。受け容れること。赦すこと。信じること。そしてまた、歩み去ること。拒絶すること。断罪すること。疑うこと。矛盾が矛盾のままに、形を伴わずして存在する、それこそが愛だ。発露されたものに気を取られてはいけない。心に感じるこれ、言い表せぬこの静謐な愛に、自分の全てが根差していればそれはすべからく愛だ。愛とはまさに、魂そのものではなかったか?たしかに腕で抱けるのに、形の朧なそれは、見えざる自分自身ではないだろうか?

彼女に聞いた。「おれは無関心か?」彼女は「そう思わない」と言った。僕の信じていた愛、与えず奪わず、ただ愚直に信じ続けること、が、彼女には通じていた。通じていると僕は信じていた。そう思うことが愛だと信じていた。
僕にはなにも分からない。本当になにも分からない。考え続ければ、いつか絶対的な真理に辿り着けると信じていた。僕は、雪に溺れる庇すら愛しい。これが相対的なものだとしたら、僕は何を信じて生きれば良いか分からない。
僕が彼女に与えられたもの。それは僕自身だった。彼女が僕に与えてくれたもの、それもやはり彼女自身だった。愛とは、この世の両端から両端までを覆う何かだった。そして人は、一生をかけても、愛を愛のまま扱えない。
愛を愛のままに、その身に宿そうとした男。すなわち僕。僕はそのせいで、危うく気が狂うところだった。本当に気が狂うと思った。

生活のすべてが愛に他ならなかった。僕は知った。それは絶望と共にあり、同時に、幸福と共にあるということ。泥濘に溺れ死にかけている僕も、太陽に祝福されている僕も、愛だった。気が狂っても構わない。ただ僕は精一杯感謝したい。奥さんに。仲間に。自分自身に。この世の全てに。

愛に。

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