世迷い、あるいは旅

心に凪が訪れた。
僕はある一つのことを発見した。それは偶然だったのかもしれないし、もしくは必然だったのかもしれない。ここ最近僕を苛んでいた感覚はずばり、「生きてきたすべてが無駄だった」。一度は乗り越えたそれがまた再来してきた恐怖、25歳にもなってこんなこと言ってる情けなさ、絶望と焦燥と寂寞とがすべて覆いかぶさってくるような感覚が、ここ2,3日続いていた。
しかし僕は、さながらシーソーのように、また元通りの僕に戻った。昨日まで、産まれてきたことそれ自体に対する後悔を始めんとしていたのに、今はまた、生きてて何が悪いと胸を張って言えるようになった。しかしそのスタンスは、以前とは少々違っている。
何が僕を変えたのか。何が僕を翻弄したのか。僕は何を見、何を得、何を失ったのか。ずっと考えた。話し合った。そしてようやく、僕はある一つの真理にたどり着いた。即ち。

「blackはwhiteである」。

たとえばここに、オセロが一枚、黒の面を表にして置いてあるとする。見えぬ誰かが僕に問う。「これは『表』ですか?」僕は答える。「然り」。するとその人はオセロをひっくり返して、白の面を向けて僕に問う。「これは『裏』ですか?」。戸惑いながらも僕は「然り」と答える。するとその人はまたオセロをひっくり返し、黒の面を向けて、「これは『黒』ですか?」と聞く。僕は「然り」と言う。そしてこのあたりで気付く。
もしはじめ、オセロの「白」が表になっていて、「これは『表』ですか?」と聞かれたならば、どうだったか?僕は「否」と答えたか?答えなかっただろう。なぜなら、黒が表になっていても僕は「然り」と答えたのだから。つまり、これらの会話はすべてあべこべでも何ら問題なく成立することになる。即ち、表は裏で、裏は表。黒は白で、白は黒。表が裏を、黒が白を兼ねているということではない。相反するそれは、しかし確かに同じ様にして存在している。矛盾が矛盾のまま、立派に胸を張ってそこに「ある」。

では、「嘘」の反対は?「真実」である。真実があって嘘があり、嘘があって初めて真実は真実と呼ばれる。嘘しかない世界などあり得ないし、また、真実しかない世界もあり得ない。オセロでいえば、黒のみ、白のみのコマ。そんなものはあり得ない。
僕はずっと嘘を吐いて生きてきた。世間に対して。大切な事ほど、より慎重に、大切に嘘をついた。ずっとずっと、そうやって生活してきた。僕はオセロの黒か白か、そのどちらかだった。極端だった。

世界1

稚拙な図を用意したのでこれを用いて話を進めていきたい。
まずこの円は、世界、もしくは社会を表している。そしてその両端にあるのは、「黒⇔白」「嘘⇔真実」「愛⇔無関心」といった、両端である。
※1の青点と赤点は、ごくごく一般的な人を表している。こうした人は、「基本的には真実を話すが、嘘もほどほどに取り入れる」、すなわちバランスの良い生活を心掛けている。真実一辺倒、嘘一辺倒の生活はいけないと理解しているので、そうしているに過ぎない。別に変なところは何一つない、ごくごく普通の人間である。
※2は少々変わった人である。愛の占める割合が大きく、博愛の精神に満ちている。「困っている人がいたら、迷わず助ける」。なるほど確かに立派な人である。
※3。これが今までの僕である。「ほどほど」を知らない。嘘なら嘘をつきっぱなしで真実は一切話さない。黒なら黒で、そこに一寸の白もない。何かに傾倒しているというのはもちろんかっこいいことでもあるが、ダサいことでもある。図には無いが、これも表裏一体のものである。ダサいとかっこいいは同一のものである。

世界2

次にこの図だが、これは図1を単純に180°回転させただけのものである。
※1の人が居た場所、すなわちスタンスは変わっていない。しかし、「真実」であった場所に「嘘」が陣取っている。これはすなわちどういうことであるか。「基本的には真実を話すが、嘘もほどほどに取り入れる」スタンスと、「基本的に嘘ばかりつくが、真実もほどほどに取り入れる」スタンスは、全く同一であるということだ。
※2の博愛主義者は、誰かを愛することは、その人に対してとことん無力であるという事を、うすうす感じている。とことん無力であるということは、結果的に無関心と変わらない。誰かが誰かを想うあまり、何もしてあげられないのと、どうでもいいから何もしない、というのは、結果としては同一のものである。※2の人は溢れる博愛精神ゆえに自分の無力さを知りつつある。
※3。僕はどうなったか?嘘一辺倒の生活、それが何をもたらすか。僕はそれを知っている。破綻である。人間関係、生活、精神、そのすべての破綻である。嘘一辺倒の生活がやがて破綻をもたらすのであれば、真実一辺倒の生活は何をもたらすか?破綻である。僕はそれを知り得ることができた。何故か?奥さんが、真実一辺倒の人間であったからだ。彼女はずっと、僕という存在の対極に位置していた。
オセロの話に立ち戻って考えてみる。「表は裏、裏は表。黒は白、白は黒」。では。
僕は奥さんで、奥さんは僕だった。論法にすればメチャクチャなこれを、しかし確かにそうであると胸を張って言える根拠は、ただ僕自身の実感に根付いている。僕は奥さんと知り合った時に、確かに価値観の差を感じた。この人は自分と何もかも反対の考え方をする、と思った。しかしそれでも、僕はこの人となら上手にやっていける、と直感した。そしてきっと、この人と結婚するのだろう、と直感していた。これは嘘ではない。

次に「中点」に着眼する。この「中点」は、嘘も真実も五分五分に取り入れた状態、では決してない。その証拠に、この「中点」は普通見えない。みんな中点を目指すべきことは分かっていても、見えないから、やはりどこかで嘘や真実、愛や無関心を使い分けている。9割の真実の中に生きることは、1割の嘘をついて生きていることと同義であり、9割の嘘と1割の真実で生きていることと同一である。
僕はどうなったか?嘘10割の世界に住みながら、真実10割の世界に住む人と寝食を共にした。僕はある一つの要素に於ける両端を見た。そしてついに、中点の存在を悟った。
中点は、この円がどれだけ回転しようとも、常にど真ん中に位置している。オセロで例えるなら、コマを縦に置いたときの、黒と白のその中間、黒でもあり白でもあるそこ、である。
僕は愛についてずっと考えてきた。そして奥さんを心の底から愛していた。愛し過ぎた。するとそれは無関心と何も変わらないことに気付いた。そして中点を見出した。
中点に居る、ということは、「識っている」ということである。嘘ばかりの生活も、真実ばかりの生活も、またほどほどの生活も、それは何ももたらさないというということを「識っている」状態である。だから僕の心には、確かに凪が訪れている。僕は宇宙のように、矛盾を矛盾のままに扱うことを識った。それはどういうことか。これはどこまでいっても実感である。「僕が『居る』こと。愛はただ『ある』こと」。僕は25年かけて、それを知り得た。

とはいえ考察はこれからも続き、生活は終わらない。僕はまだ25年しか生きていない。この考えがすべて間違っていると悟る日が来るかもしれない。いやきっと来るだろうと思う。来てほしいとさえ思う。何故か。僕の心に訪れた凪は、暴風と同一のものであるからだ。
常に真反対のものに気を付けなければいけない。強風の反対は、微風ではない。対極が存在するものは常に根源的である必要がある。即ち、強風でも暴風でも、その反対は無風、凪である。凪が無ければそもそも、強風も暴風も定義できない。凪があって初めて風が存在している。風が存在するうち、凪は必ず存在する。

ようやく僕は人並みの生活を送れるのかもしれない。だとすれば、それは喜んで享受して、光の祝福も受け容れよう。闇の抱擁を愛そう。
間違いなく、僕はここに、居る。

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