たばこ

「もうすぐ絶滅するという煙草について」という本を読み、僕も一喫煙者のはしくれとして何か書いておくのが礼儀だろうと変な義務感に唆されたので、ここは素直に従って、こっそり何事かを書き記しておくこととする。

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僕が本格的に煙草を吸い始めたのは16の頃。理由としてはなんでもない。他者と自分の間に一本線を引いて、区別したかったからという至極つまらないものだった。
はじめの頃は、母親の煙草をこそこそとせしめて自室で吸うというのを繰り返していたが、やがて学ランさえ脱げば自分でも調達出来ることに気付き、普通にコンビニとかで買うようになった。
喫煙が学校に発覚し謹慎処分を受けるたびにやるせない気持ちになったが、僕は決して煙草をやめなかった。禁煙を志しても、2、3日するとあの紫煙が郷愁と共にやってきて、中毒症状以上の何かを引き起こしてくる。海が見たい、バあの曲が聞きたい、というのとなんとなく似ている。そこで一本、お気に入りの銘柄を背徳と一緒に吸い込むと、これがまたなんとも言えず美味かったのをよく覚えている。
不思議なのは、これのせいで苦しめられたことは多々あるのに、それでも今なお煙草を憎んではいないことだ。むしろ僕は煙草を愛してさえいる。喫煙の習慣も儀礼も愛している。何故か。
僕が自分自身に対する考察を深めていた時期、そこには常に煙草の影があった。何故こんな、害しか無いものを喜々として吸引するのか、何故煙草に火を点けるあの一瞬間は、あんなにも愛しく美しいのか。するとおぼろげながら、自分が無駄なものばかりを愛する性質を持ち合わせているということが見えてきた。僕はどうやら、理に適ったことを本能的に嫌悪する厄介な性格の持ち主であるらしい。煙草なんていうクソの役にも立たないそれを愛している自分に気付いた時、湧き立つような喜びが胸に去来したのをよく覚えている。僕は不必要なものをちゃんと愛せる人間だ、と。
自分の性質に気付いてからは、喫煙がより一層楽しくなった。それであらゆるものに手を出してみた。シガリロ、葉巻、手巻き煙草、水煙草……。煙草を消耗品と捉えるよりむしろ、何か創作活動のように考えていた節が無いでもない。創作活動と言うのがいささか大仰過ぎるのであれば、趣味と言い換えるか。
クタクタの頭と身体で吸う煙草は、何か格別の感じがする。煙が肺を慰めてくれているとでもいうのか、しとりと体に染みる感じがよく分かる。そんな時は、いつもより深く煙を吸い込んで、ちょっと肺に溜めてから、ため息混じりに煙を吐くと、生きている心地がして機嫌が良くなる。

この本の中で、煙草は生活の中に空白を産み出す道具だと述べているものがあって、これにはなるほどと思った。煙草とは、何もしていないをしている状態そのものであって、これがつまり1日のうちの空白になり得る。空白、というのが引っかかるのであれば、余白と言い換えても良い。生活を規定するあらゆるものから、自己を遠ざけるパディング、とでも言うか。
そう考えれば、クタクタになった時ほど煙草が美味いのもまた、納得できる。長時間デスクワークに勤しんでいた人が、ふとディスプレイから目を上げて伸びをするときのあの快感に似ているのかもしれない。ぐぐっと余白のできる感じは、凝り固まった節々を伸ばしてほぐすのに、よく似ている。煙草はまず間違いなく、精神を弛緩させる作用があると見て良いだろう。

現在、煙草のパッケージには、何やら説教がましい文言があれこれと書き連ねてある。外観のデザインを損なうといって毛嫌いする人の気持ちも分かるが、しかし僕はこれはこれで結構気に入っている。この口やかましい感じが、なかなかどうしてひとつのデザインとして成立していると思っている。四角い罫線に囲まれた、きわめて無機的で無関心な文言。それすら愛してこそ、真の喫煙者を名乗れるのではあるまいか。風にたゆとう煙のごとく、のらりくらりふらりふわりと、街のそこここをタールで汚して回る我ら煙草呑みは、現代に於けるレジスタンスである。マナーや常識、時代の潮流といった見えざる何ものかに、ささやかに抵抗する哀しき少数派である。

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次に女性の喫煙について。煙草について何事かを書くこの僕は男性なのだから、ごく普通の男性喫煙者の立場から見解を述べておくのも悪くはなかろう。
一般論としては、女の子が煙草を吸うなんてみっともないと考えられているようだが、僕はその説に猛反対する。紫煙をくゆらす女性の儚げな眼差し、煙を吸引するたびにふくらむ妖艶な鎖骨、ため息混じりに吐き出す熱い煙に、男ならすべからく欲情すべきである。それを指してみっともないと嘲るなど、今僕はそいつらの舌を引っこ抜きたい気持ちで一杯になっている。
紫煙というのは、見えざる業を可視化する。しかし男の業なんざたかが知れている。金と権力と性欲に翻弄され、できもしない理想を掲げ、やがて絵に書いた餅を喉に詰まらせて窒息する。だからせめてもの煙草。せいぜいそんなものだろう。
女性の業というのは、男の僕から見ると物凄まじい。それは呪いと遜色ない。常に何者かに主導権を握られ、或いはすすんで明け渡し、身も心も愛する者に与えてしまいたいと思う強烈な本能。抗いがたい衝動に、それでも真っ向から挑んでゆかねばならぬ苦悩。金や権力さえ与えておけばそれなりに喜んでいる男とは真面目さが違う。力強く根を張って生きている女性の人生とはまさに生ける芸術である。
物憂げに紫煙をくゆらす彼女たちの周りには、何か密度の高い空気が立ち込めている。ちょっとするとそれは隔壁のように思えて近付き難くもあるが、その空気が人肌にじんわり温められていることを悟ると、男としては劣情を煽られないわけにはいかない。ライターが不良品でなかなか煙草に火を点けられないでいる女性なんかを見ると、何も言わずに隣から火を差し出してみたくなる。当然そんなクソ度胸は持ち合わせていないが、しかし、遂行できないまでも、それが男の仕事ではないだろうか。少なくとも僕はそう考えている。
「煙草を吸う女はきらいだ」などとドヤ顔で宣言し、自身の潔癖性を示さんとするカス男には、さしあたってチンポに根性焼きしてやるのが手っ取り早いだろう。包茎手術を受ける立派な根拠が出来て、むしろ感謝されるかもしれない。

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さて煙草について長々と書いてきた。つまるところ僕は煙草が大好きである。吸っても何も良いことが無いのは承知しているし、寿命を縮めるのも承知している。でも僕は、無駄に終始することを公的に容認してくれる煙草というのが好きだし、長生きなんてまっぴらだから、余命をもりもり削ってくれる煙草には感謝をしている。
時々、清潔きわまる病室のベッドで、いろいろに点滅するハイテク機器に囲まれながら呼吸器を付け、苦しそうに息をあえがせている自分を想像してみることがある。臨終としては最高のシチュエーションである。情けなく、みじめに、力なく、そうして静かに死んでいく。真っ黒けの肺を愛しく思いながら、最期は自分が火を点けられる。今度は僕が紫煙となって、火葬場の煙突から立ち昇る。

では、喫煙者諸君。各々煙草に火を点けて、乾杯。いや、乾煙。

嘴広鸛

周りがせっせと勉学に励み、現実世界に対抗する素養を磨いている傍ら、僕はこの世を如何にナナメから見るかということに夢中だった。しなくても良い考察、要りもしない知識で頭をパンパンにすること数年、気づけば僕は立派なつまはじきものだった。そして僕は、つまはじきものである自分に誇りを抱いた。「自己」の獲得方法としてこれは、あまりに俗すぎたかもしれない。しかしとりわけ才能もない人間が無限の自己を獲得しようとしたら、多少の卑怯でも許してもらわなければやってられないと思う。
他者から見ればおとなしそうに見える僕の内面には、しかし無法者が住んでいた。不用意に近づこうものならショットガン片手に怒鳴り散らし、時には本当にブッ放すこともあるような、危険な輩。僕は手に余るソイツを自分自身だと信じ、誰からも愛されないソイツを抱擁した。ショットガンをブッ放されても構わなかった。
自由と孤独が抱き合わせだということを、僕はpillowsが歌う前からよく知っていた。いつしか僕は外道の美学に翻弄され、愛と幸福について真面目に考えるようになった。他者と同じ生き方から得られるものは、手のひらに収まる程度の収入と幸福でしかない。若造の僕には、それを実感として感じ得られるだけの経験が無かった。だからそう信じることにした。世間並みの生き方を選んで、そこそこの幸福に甘んじるくらいなら、僕は産まれてこなかったも同然だと思った。
手に余る幸福、手に余る愛、手に余る人格。自分一人の身体では到底収まりきらない何かに、ずっと興味があった。それが真理だと思った。それが人を救うと信じていた。
自己を見出した僕が次にやろうとしたのは、どこまでいっても規定してくるこの「自己」をこそ超越し、共感覚を得ることだった。心に住む無法者はあらゆるものに反駁し、向かってくるものを殺し、そして最後に残ったのは、自分自信、無法者を住まわせているこの僕に他ならなかった。
ここから出せと彼が叫ぶ。しゃがれたその声を、僕は何度も聞いた気がする。僕はそんなアイツが愛しくて仕方が無かった。どうにかして出してやりたかった。試行錯誤する中で、僕は突然、あることに気付いた。彼の生殺与奪は、この僕が握っているという事に。造作も無く、ただ押し潰せばそれで済むという事に。こんな簡単なことに、25年、僕は気付かないで居た。気付かないでいたことが、僕の誇りの根源だった。
しかし彼はずっと知っていた。自分はいつでも、僕によって殺されるのだということを。

まず産まれてきた意味を欲した。ある時点でそれは、産まれてきた意味を後付けしていくことに変わった。次に、産まれてきたことそのものに意味があるのだと実感を通して理解し、そして、暫定的にではあるが幸福が何たるかを悟った。それは街だった。それは人だった。それはあらゆるすべてに他ならず、そのあらゆるものの中に生きる自分自身そのものだった。幸福とは、不幸と対に語られるものではなく、絶対的なものであることを知った。
愛も然りだった。愛はただ存在そのものだった。上も下もなく、右も左も無く、触れるために梯子もシャベルも必要としない。どこにでもあって、常に人と共にある、それが愛だった。

適度な懐疑、適度な信頼、適度な愛、適度な幸福。そんなものははじめから存在しない。そんなものに甘んじる人生なら、いつ終わっても結構だ。偽善者だとか、理想主義者だとか言われても一向構わない。おまえたちは気付いていないだけだ。コツコツやっていればいつかは報われる日がくると、よく考えもせずにそう信じているに過ぎない。均整の取れた人生がやがて、真の幸福を運んでくると信じているに過ぎない。おまえらはまだコウノトリを信じている。待ってりゃいつか幸福を運んでくると。馬鹿もここまでくると手が付けられんよ。看取られながら悟ると良い。幸福とは、人生そのものであったということを。愛とは、自分自身に他ならなかったということを。
僕は嘴広鸛。水辺に佇み、何をも待たず睨む鳥。そんな奴が幸福を悟ってるなんて、思いもよらぬことそれが、人生の甘露というものだろう。

めがね / 眼鏡 / megane

眼鏡は不思議だ。突き詰めれば、それは眼前に置かれたレンズそれだけであるのに、人の(主に僕の)心を魅了して止まない。今日はちょっと奮発して、好きなブランド and 気になっているブランドについて考察しようと思う。

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・OLIVER PEOPLES / https://www.oliverpeoples.com/international

オリバー・ピープルズといえば眼鏡。眼鏡といえばオリバー・ピープルズ。まさに定番中の定番のブランド。
このブランドの特色としては、何といっても「真面目な眼鏡を作る」ところにある。気取り過ぎず、ただシンプルに、引き算の作り方をする。何かを足すにしても、それは非常にさりげない形で細部に宿っている。僕は初めて眼鏡を作る人には、とりあえずオリバー・ピープルズをおすすめしている。シンプルで主張しすぎないデザインと共に、豊富なラインナップによってどんな顔型の人にでも合うからだ。
トレンドを抑えつつ、飛躍し過ぎないギリギリのラインできれいにまとめてあるオリバーの眼鏡は、安心感がすごい。どんなシーンでも活躍してくれる。
ただ、基本的に上品な感じなので、フレッシュみあふれる10代の人とかがかけるにしては、ちょっと重くなるかもしれない。「ハズし」といえばそれまでだが、あえてハズすのであればわざわざオリバーを持ってくる必要はない。オリバーは正当な「眼鏡」であるのだから、ちゃんと「眼鏡」として使ってあげなければだめだ。

・YUICHI TOYAMA. / http://yuichitoyama.com/

圧倒的な美しさ。まるで工芸品のように輝くそれは、眼鏡というには少し惜しい気すらする。
少し触れただけで折れてしまいそうなそのラインは、しかし確かなしなやかさと剛性を備えている。
ユウイチトヤマの特徴は、ブリッジにある。気持ちいくらいふんわり弧を描いたそのブリッジは、のびのびとしていて、ちょっと他ではお目にかかれない。縄跳びから着想を得たという「ダブルダッジシリーズ」においては、まるで一筆書きで描いたようなラインを見ることができる。
思うに、ユウイチトヤマのフレームには「光」が宿っている。ただツヤツヤしているとかそういう意味以上の、なにか形而上的な光が差し込んでいる。「1Q84」のリトル・ピープルじゃないけど、空間から光の糸を紡ぎ出して生成したかのような美しさがある。

・theo / https://www.theo.be/

僕の一番好きなブランド。
テオの眼鏡は、常に躍動している。一見すると眼鏡かどうかも怪しいそれは、しかし確かに眼鏡であって、眼鏡であるからこそ眼鏡以上の意味を宿している。
リムを2つくっつけてみたり、ブリッジを延長してレンズを横切らせ、「見る」ことをとことん邪魔してみたり、テンプルエンドにリムを作って「第三の目」とかやったり、もう無茶苦茶である。しかしそれは単にふざけているという以上の何かを感じさせる。そこに根付くのは、テオの確かな哲学、「theo loves you」である。テオは眼鏡をかけるすべての人を愛している。
愛とは、何も肯定せず、否定せず、与えず、奪わず、ただあるがままを受け容れることにある。眼鏡をかける、その行為を愛するが故に、テオは躍動する。
ファッション的な観点から見ても、theoはすごい。眼鏡を掛ける人が「見る」のはもちろん、眼鏡を掛けている人が常に「見られている」ことも意識している。もっと言えば、眼鏡を掛けている人が自分自身を「俯瞰する」ことも視野に入れている。一見するとものすごい悪目立ちしそうなその物質感、質量感は、しかし人の顔と融合することで呆気なく引っ込む。人の顔込みでデザインがされている、何よりの証拠だと思う。

・meganerock / https://www.meganerock.com/

クラフツマンは雨田氏。素材はすべてセルロイド。福井県鯖江市に工房を置く、正統派「黒縁眼鏡」。
こってりとした黒縁眼鏡なら、エフェクターや白山眼鏡などいろいろあるが、メガネロックには独特の「コミカルさ」がある。定番とトレンドをしっかりと抑えたうえで、そこにきちんと自分自身=雨田氏のデザインが乗っかっている。あまり黒縁眼鏡を好かない僕が惹かれたのも、そういう理由。
コミカルであることは、どこか抜けていると言い換えることもできる。これは、考えてみるに結構重要なことである。眼鏡は顔に張り付いているわけだから、常に表情と共にある。即ち、笑い、泣き、怒り。たとえばオリバーなら涙が似合うとか、theoなら笑いが似合うとか。メガネロックはそういうのが無くて、コミカルだからこそ表情を表情のまま見せられるだけの余白が残されているように思う。イメージにがっちり捉われない、ということは、長く使えるということだ。長く使えるということは長持ちしなければいけないわけで、そうすると、素材をセルロイドに限定する意味がよく分かる。しなやかだからフィッティングはしやすいし、剛性があるから壊れにくいし、もし壊れても直しやすい。実に理に適った、良いブランドだと思う。

・Haffmans & Neumeister / https://www.haffmansneumeister.com/

眼鏡というのは、やっぱり、顔に掛けておくものだから、立体的な構造を有していなければならない。テンプル、ノーズパッド、この二点でしか眼鏡を支えられないとなれば、デザインもそれなりに束縛されてくる。どうしても三次元的なデザインを余儀なくされるのだ。
ハフマンスをはじめ見た印象、これはちょっと筆舌に尽くしがたい。圧倒的な美しさと、驚くべき「平面性」。オールフラット、と呼びたくなるほど平面的なそのデザインは見事と言う他なく、ただただ見惚れるばかり。これを顔に掛けるのだと考えただけで勃起しそうな。
素材はシートメタル。限界ギリギリまで薄く細く加工したそれは、まるで光芒。とんでもなく妖艶で、知的。何かこれは眼鏡というよりも、太陽の光とか、満点の星空とか、そういう誰にとっても普遍的な美しさを備えた何かに近い。詩的ですらある。果たして人間がこんなものを作り出せるのかとすら思ってしまう。
フラットであるということは、奥行きが無いということだ。奥行きが無いということは、必ずしもネガティブなことではない。むしろ、ハフマンスは「眼鏡」からあらゆるすべての要素を引き算したうえで、最後の最後、「立体性」を引いたのである。故にそれは、エフェクターよりも圧倒的な存在感を醸し出す。

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良い眼鏡は、総じてイメージやスタンスが確立している。逆に悪い眼鏡は、あれもこれもと欲張るせいで器用貧乏になっている。
器用貧乏な眼鏡は、掛けていても面白味が全くない。あ、眼鏡。視力、お悪いんですか。いかにも。あ、左様ですか。これで終了。せっかく近視でもこれじゃあんまり味気ない。
おや、眼鏡。素敵ですね。左様。良い物ですよ。不思議ですね。不思議でしょう。眼鏡一つでこんな会話が産まれたら、最高に幸福だと僕は思う。