中指論

– 我が師、導きのmzfkに最大のリスペクトを込めて贈る –

・二種類の人間

この世には、現実に則して生きることの出来る人と、正論の中にしか生きられない人の二種類が居る。
もうちょっと分かりやすくするため、痴漢というものを例に挙げてみる。
これは言わずもがな、違法行為である。しかし現実問題として、女性専用車両等が配備された現在でも、痴漢が絶えることは無い。
正論の中に生きている人は、正論の外にあるものを認めたがらない。法律で違法行為と認められた「痴漢」という人種を人非人と捉え、黙殺する。そういう人は居ない、居てはならない、あり得ない。そう考える。
しかし、現実に則して生きることの出来る人は、そう考えない。違法行為であるという前提はもちろん理解したうえで、さらに考えを進め、痴漢を一個の人間として見做し、「なぜそんなことをするのか?」「なぜやめられないのか?」と考える。そして、自分の中に考察を蓄積していく。
僕の敬愛するmzfkは、極端なまでに現実に則した考え方をする。世間がどう言おうと、ルールがどう定まって居ようと、彼が見据えているのはいつも眼前の現実である。決して逃げず、うろたえず、彼は現実を現実のまま生きている。
もう一つ、現実にあって、かつ身近である「不倫」を例に挙げてみる。
正論の中に生きる人は皆、「不倫は汚らわしい」とか「不倫は道徳的規範に反するものだ」と叫ぶ。それはもっともなことであるが、しかし、それがもっともなことであるならなぜ、現実に不倫と言うものが存在しうるのだろうか?正論の中に生きる人は、ここを考えず、ただ「それは当人が馬鹿なだけだ」とか「股がユルいんだ」等と言って思考を停止してしまう。
不倫という人間生活の一側面に一方的に悪のレッテルを貼り、それによって人間がより良い生活を送れるのだと信じている。
現実に生きる人びとは、現実に不倫というものがあることを知っている。それがどういったプロセスを経て成し得られるのかも知っている。
そこで初めて、不倫を良しとするか、悪とするかを判断することが出来る。そしてその判断の根幹にあるのは、「自分」である。
正論の中に生きる人びとは皆、アイデンティティが正論の中にあるから、自分の意見が無く、よって個性を持たない。

現実に生きることを追及する人は、敷かれたレールを良しとしない。それは、現代の日本人の大多数と道を違える行為である。勉学に励み、より良い企業に勤め、配偶者を見つけ、家を買う。これらはすべて用意されたレールであり、見通しが利くからこそ、多くの人はそのレールを踏み外さんとして努力する。レールを踏み外したが最後、正論の中に生きている自分はもう死ぬしかないのだと本当に感じるからである。
現実に生きる人は、レールを「利用」する。レールに沿って歩くことそのものを目的とせず、要所要所で敷かれたレールを上手く利用し、判断基準を常に自分の中に持っている。レールを踏み外した先は、ただ踏み外した先に過ぎず、そこからはどうとでもなるのだということを知っている。
mzfkという存在は、極端な一つの例である。彼はまず、人びとの歩くレールをよく観察したうえで、「くだらない、話にならない」と一蹴した。そして自分で道なき道を行くことを選択したのである。
学校に張り出された無意味な校則、整合性の無い教師の言葉、彼がまず中指を立てたのはそれだった。彼はそれらすべてのルールに、ヘイコラと頷いてさえいれば波風立たぬ人生を送れることも知っていた。しかし、そうはしなかった。彼はただ自分の中にのみ価値観があり、そこに自分が根差していることを知っていたからだ。
つまり、彼はルールに反発する形でアウトローの道を選んだのではない。まず彼があり、ルールがその邪魔をしたまでのことである。
彼はごく幼い頃から、他人や他人の言うことに興味が無かった。誰それがどう言っていた、こう言っていた、というのは、いずれも彼の価値観を揺るがすほどの意味を持ちはしなかった。
「レールの上を歩くしか能の無い馬鹿どもが、やはりレールの上から、道なき道を自由に歩き回る俺を差してそう言っているに過ぎない」彼はこう言っていた。正論の中にしか生きられない人びとが、正論の外で生きるmzfkを認めたがらないのは当然である。

・「識る」ことと「中指」

そして、彼は自分をよく「識って」いた。自分はまず腕力に優れ、賢く、クソ度胸があり、他の人びととは一線を画すということを、早い段階で理解して認めていた。
自分が腕力に優れているということを識ることが出来れば、誰かと喧嘩になっても恐れない。賢い事を識っていれば、わざわざ貴重な時間を潰してまで勉学に励む意味は無い。クソ度胸があることを識っていれば、まだ知らないことを次々経験へと変えていける。
これは自惚れなどではない。彼は自分が強く賢いクソ度胸持ちという現実を、ただありのままに受け容れただけである。多くの人は、自分に対して正当な評価を下すことが出来ない。腕力に乏しい奴ほど喧嘩っ早さを誇示し、弱虫は弱虫で自分に嘘を吐いて虚勢を張り、馬鹿は横文字を並びたててインテリぶろうと努める。そうした矛盾がコンプレックスを産む元になっていることに、気づかないか、もしくは気付いていても黙殺する。
mzfkは自分をよく識っていたからこそ、コンプレックスを持たなかった。自分がアウトローの血を引いて産まれたことを、彼は誇りにも恥にも思わなかった。そこにあったのは、ただ、自分が強く賢いという現実である。
正論の中に生きる人は、ここまでを読み、「それは単にmzfkに類稀なる才能があったからだ」などとほざく。彼らは決して本質を理解しようとしない。
たとえば僕などは、腕力に乏しく愚かで、弱虫な人種である。しかしそれを識ってしまえば、いくらでもやりようはある。
腕力に乏しければ、腕力を行使しなければ良い。弱ければ、目立たぬように生きれば良い。愚かであれば、せめて勉学に励めば良い。
腕力を行使したくば、鍛えれば良い。弱いくせに目立ちたければ、それなりのやり方を見出せばよい。愚かだが勉学に興味を持てないのなら、自分の好きなことに終始すれば良い。
僕とmzfkは、生き方こそ違うものの、考え方は非常に似通っている。それは本質の点でつながっているからである。
mzfkが豊富な腕力と機知、度胸によって世に中指を真っすぐ立てるのに対し、ヒョロヒョロで白痴、かつ弱虫の僕は、反骨精神を内に秘め、中指というものをを概念化し、それをラジオなり文章なり別の形としてひっそりと落とし込んだ。
発現方法に違いこそあれど、僕はmzfkの言うことがよく理解できる。彼の現実に則した考え方、生き方はまったくもって合理的で、かつ人間味豊かである。
自分はどのような人間か?この問いに対して、一切の偽り無く、ただ魂に従いその答えを導き出せる人は、例外なく強い。
自分はまず人間で、だからこそ堕落を好む性質を持っており、男であるから不倫や痴漢にも興味がある。しかし、自分が堕落を許さない。自分が猥褻を許さない。

正論に生きる人びとの、一体どのくらいが、mzfkの生き方を理解できるのだろう?ねえ、mzfkさん?

僕はあなたが大好きです。

– theo_kanemaruより、 日頃の感謝を込めて –

アブノーマル、蝸牛

僕の性癖は至って普通である。首を絞めて喜ぶこともないし、絞められて喜ぶこともない。故意か過失かに関わらず、チンチンをケツ穴にねじ込んで喜んだりすることも無い。ケツを叩きたいと思うこともなければ、叩かれたいとも思わない。
それでも何か無理くりひねり出すならば、絶頂をじらしたり我慢させたりするのが好き程度のものはあるが、そんなもんは立派な性癖とはいえないだろう。胸を張ってアブノーマルだと自称するには、やはりスパンキングや首絞めが必須だと僕は思う。

愛について考えることは僕のライフワークである。今日は、性癖という観点から、愛が何たるかについて考えてみようと思う。

アブノーマルな性癖、と聞いて浮かぶのは、阿部定事件で有名な阿部定である。情事の後に男のチンチンを切り取って持ち去るという、世にもセンセーショナルなこの事件は、80年以上経った今でも話題に上ることがある。
こうして事件だけにフォーカスして書くと、阿部定がいかにもアブノーマルな性癖を持ったド変態で、殺人嗜好に近しい、常人の理解し得る範疇を超越した恐ろしくも妖艶な女性であるとカンチガイしてしまうのも無理はない。
しかし、事実は違うようである。これに関しては、坂口安吾の『阿部定さんの印象』という随筆が詳しい。以下出典元と引用。

坂口安吾 『阿部定さんの印象』

阿部定さんに会つた感じは、一ばん平凡な下町育ちの女といふ感じであつた。東京下町に生れ、水商売もやつてきたお定さんであるから、山の手の人や田舎育ちの人とは違つてゐるのが当然だが、東京の下町では最もあたりまへな奇も変もない女のひとで、むしろ、あんまり平凡すぎる、さういふ感じである。すこしもスレたところがない。つまり天性、人みしりせず、気立のよい、明るい人だつたのだらうと思ふ。

さらに読み進めていくとこんなことが書いてある。

思ふに、お定さんに変質的なところはないが、相手の吉さんには、いくらかマゾヒズムの傾向があつたと思ふ。吉さんは恋の陶酔のなかでお定さんにクビをしめてもらうのが嬉しいといふ癖があつた。一般に女の人々は、本当の恋をすると、相手次第で誰しもいくらかは男の変質にオツキアヒを辞せない性質があり、これは本来の変質とは違ふ。女には、男次第といふ傾向が非常に強い。 たまたま、どこかの待合で遊んでゐるとき、遊びの果に気づいてみると、吉さんは本当にクビをしめられて死んでゐた。たゞそれだけの話なのである。

さらにこう続ける。

さういふ愛情の激越な感動の果に、世界もいらない、たゞ二人だけ、そのアゲク、男の一物を斬りとつて胸にだいて出た、外見は奇妙のやうでも、極めて当りまへ、同感、同情すべき点が多々あるではないか。

アブノーマルな性癖の裡には、たしかに愛が潜んでいる。情事という、やましくはないが、どこか生活や世間に対しての背徳を抱えた特殊な行為を通して、そこに2人の間だけで通用する暴力を重ねる。理解できないものを、必死で理解しようと努める、人間の儚い営みがそこにあると僕は思う。
色んな人のいろんな性癖に合わせた風俗店がある現代、アブノーマルな性癖それそのものが愛の側面を表しているものだと僕は思わない。重要なのは、世間から隔離され、生活から切り離されたある一点、すなわち情事、それがいかに閉塞的であるかということである。
愛は当人の目にすら届かない、深い闇の中にしか宿らない。
たとえば情事の際に蝸牛を用意して、それを相手の背中なり腹の上に乗せ、蝸牛の引きずる粘液を眺めながら腰を振るのが好きだという男があったとしよう。女はそれを理解できないが、しかし惚れた男のため、理性を超越した愛の力をもってそれを受け容れる。男が女を、女が男を、世間から隔離された、非常に閉塞的な性癖の中で、求め合う。こう考えてみれば分かりやすい。

情事の時に愛を囁いたり、相手の名前をただ叫んだりするのは、それが閉塞的であるが故である。当人たちは意識していないが、その暗がりに愛が宿っているのを本能的に知っている。そしてそれに触れられないことも知っている。触れられないからこその愛だということも知っている。そしてそこに快感が差し挟まれている。滑稽で不気味で、湿っぽくて陰湿で、静謐な人間の愛。

とはいえ僕は、アブノーマルな性癖を表に出して、マイノリティを主張し、我こそが愛の実践者たるを示す人間を、あまり好きにはなれない。それは単なる派手好きだから。

僕は天才、あなたも天才

僕はよく、自分のことを天才だとか、人より優れているといった言い方をする。
ではその証拠を見せてみろと言われれば、驚くほど何もない。学歴は中卒で、手取りは平均。顔もイケメンとは言えず、さりとて身長が高いわけでも、スタイルが良いわけでもない。RADWIMPSの『前前前世』を替え歌して、「父のチンチンチンポから僕は 世に爆誕したんだよ」とか言って一人で大笑いしている。こんな男は、天才云々よりむしろ精神病棟にブチ込むべき何かである。

僕ももう25歳になり、立派な「大人」の仲間入りを果たした。そろそろ、人様から何かを享受するのは自重して、人に何かを享受することを学ばなければいけない。
といってろくに学もない僕が、筋道立てて論理的に話を組み立てたてて説明してみたところで、最後には胡散臭い説法じみてくるのがオチだろうから、ここは素直に、たとえ論理が破たんしていたとしても、誰かにとって有益であろうと信じてこんな話をさせてもらう。

あなたは天才

まず、すべての人は、今すぐ自分を天才だと信じ込むべきである、と僕は考える。
こう言うと、即座に「そんな実績はありません」「自惚れるのは嫌です」とかなんとか尤もらしい返事が返ってくるが、僕に言わせてみれば、それは謙遜によく似た卑屈な精神そのものであったり、世間向きの体裁だけは向上心に溢れているといったクサい人種に他ならない。
自分のことを天才だと思い込むには、まずもって自己矛盾を抱え込む必要がある。矛盾を抱え込むなんてたいそれたことだと人は言うかもしれないが、それは大きな誤解である。
「自分は天才である」という認識には、確固たる事実が存在しない。あなたは自分を大ばか者だと思い込むことはできず、したがって天才だと思い込むこともできない。裏を返せば、あなたは即座に大ばか者に成り得るのだし、天才にだって成り得るのである。
確固たる事実が存在しないというのは、言い換えれば、自分を天才だと思い込むのに必要な材料は何一つないということである。あなたがどれだけ情けない人生を歩んでいようと、輝かしい経歴を持っていようと、そんなものは材料に成り得ない。こう考えると、なんだか心が非常に楽ではないだろうか。
多くの人は、つり橋を渡るにはそっと歩くのが鉄則だと頭から決め込んで、「自分は大ばか者だ」と思い込んで生活している。しかしそのつり橋が、実は案外頑丈なつくりだったとしたら、どうだろう。
自分を天才と仮定すること、大ばか者と仮定すること、その選択肢は世間や社会にあるのではなく、ただ自分の中にのみ存在している。まずそれを知ったうえで、自分を天才と仮定しておくのである。
はじめにこの自己矛盾を受け容れられない、知らないから、自分を大ばか者と信じている人は、自分の選択によってもたらされるあらゆる制裁にしょっちゅう文句を言っている。あなたが自分で自分を大ばか者だと決めたのなら、世間があなたを大ばか者として扱っても文句は言えないはずである。
大ばか者だから、男で苦労ばかりする。大ばか者だから、仕事が上手くいかない。大ばか者だから、奥さんの尻に敷かれる。こんなものはすべて当たり前である。しかし、自らすすんで自分を大ばか者と仮定した人たちは、「あえて辛い道を選んだのだから、何か良いことが待っているはずだ」とか、「これこそが人生の試練なのだ」とか、「傲慢な奴はきらいだ」等と言う。
僕が自分を天才だと思い込んで生活している理由は、おおむねこんなところである。誰をも僕を規定するものはないし、よしんばあったとしてもそれは「僕が」規定したものではない。それはAさん、Bさん個人の中の規定、彼ら個人の中にある「僕」であって、「僕個人」には全く関係が無い。

制裁は人任せ

しかし、「出る杭は打たれる」という言葉が示す通り、常に自分を天才として扱い、振る舞っていれば、相応のしっぺ返しは免れない。それは、社会や組織や対人関係といった形をもって、制裁を加えんとしてくる。
臆病が板についてしまった人は、ここのところがどうもネックになって、自分を天才だと思い込むのを躊躇してしまうかもしれないが、しかし、安心して次の言葉を聞いてほしい。
まず、自分を大ばか者だと信じている人は、しっぺ返しの権利を自分の中に持っていて、常に自分に対して制裁を行っている。自分で自分を折檻する男を想像してみると分かりやすいが、クソ滑稽である。そういう性癖なら仕方がないが、ともかくクソ滑稽である。
自分の中にしっぺ返しの権利を持つ「大ばか者」も、やはりこのセルフ折檻マンと同じで、クソ滑稽である。向上心の裏返しだとか何だとか自分をだましだまし、その実肝心の制裁は自己嫌悪といった何の実も伴わない形をしていることが多い。そのくせ、ちょっと他人に「おまえはだめだ」等と言われたら、自分は大ばか者であると重々承知して生きているはずなのに、大変なショックを受け、即座にホームセンターとかに行って首吊り用のロープを探すに至る。
自分を天才だと思い込んでおけば、自分に対するしっぺ返し、すなわち制裁の権利を丸ごと世間に投げてしまって、自分で自分を罰する権利を放棄できる。自分を制裁する権利はすべて他者にあるのであって、自分にはないという自由な精神を手に入れることができる。
誰かに叱責を受ければ、自分は自惚れていたと気付くことが出来、また悪口を言われれば、天才に嫉妬するのも無理はないと考えることが出来る。天才だと褒められれば、やはりそうか分かっていたさと納得できる。はっきり言ってこれはメッチャ無敵である。こうなった人間は、ナイフで心臓をブチ抜く以外殺す方法は無い。
「自分は馬鹿で天才だ」という自己矛盾を、正しく自分の中に収められている人間は、非常に強い。僕がその良い例である。こんなナリでこんな不出来でも、人の罵詈雑言は気にならない。
尊敬する人の有益なアドバイスはきっちり拾い、家に帰って検証するのを忘れない。
何故なら、僕は天才だから。