アブノーマル、蝸牛

僕の性癖は至って普通である。首を絞めて喜ぶこともないし、絞められて喜ぶこともない。故意か過失かに関わらず、チンチンをケツ穴にねじ込んで喜んだりすることも無い。ケツを叩きたいと思うこともなければ、叩かれたいとも思わない。
それでも何か無理くりひねり出すならば、絶頂をじらしたり我慢させたりするのが好き程度のものはあるが、そんなもんは立派な性癖とはいえないだろう。胸を張ってアブノーマルだと自称するには、やはりスパンキングや首絞めが必須だと僕は思う。

愛について考えることは僕のライフワークである。今日は、性癖という観点から、愛が何たるかについて考えてみようと思う。

アブノーマルな性癖、と聞いて浮かぶのは、阿部定事件で有名な阿部定である。情事の後に男のチンチンを切り取って持ち去るという、世にもセンセーショナルなこの事件は、80年以上経った今でも話題に上ることがある。
こうして事件だけにフォーカスして書くと、阿部定がいかにもアブノーマルな性癖を持ったド変態で、殺人嗜好に近しい、常人の理解し得る範疇を超越した恐ろしくも妖艶な女性であるとカンチガイしてしまうのも無理はない。
しかし、事実は違うようである。これに関しては、坂口安吾の『阿部定さんの印象』という随筆が詳しい。以下出典元と引用。

坂口安吾 『阿部定さんの印象』

阿部定さんに会つた感じは、一ばん平凡な下町育ちの女といふ感じであつた。東京下町に生れ、水商売もやつてきたお定さんであるから、山の手の人や田舎育ちの人とは違つてゐるのが当然だが、東京の下町では最もあたりまへな奇も変もない女のひとで、むしろ、あんまり平凡すぎる、さういふ感じである。すこしもスレたところがない。つまり天性、人みしりせず、気立のよい、明るい人だつたのだらうと思ふ。

さらに読み進めていくとこんなことが書いてある。

思ふに、お定さんに変質的なところはないが、相手の吉さんには、いくらかマゾヒズムの傾向があつたと思ふ。吉さんは恋の陶酔のなかでお定さんにクビをしめてもらうのが嬉しいといふ癖があつた。一般に女の人々は、本当の恋をすると、相手次第で誰しもいくらかは男の変質にオツキアヒを辞せない性質があり、これは本来の変質とは違ふ。女には、男次第といふ傾向が非常に強い。 たまたま、どこかの待合で遊んでゐるとき、遊びの果に気づいてみると、吉さんは本当にクビをしめられて死んでゐた。たゞそれだけの話なのである。

さらにこう続ける。

さういふ愛情の激越な感動の果に、世界もいらない、たゞ二人だけ、そのアゲク、男の一物を斬りとつて胸にだいて出た、外見は奇妙のやうでも、極めて当りまへ、同感、同情すべき点が多々あるではないか。

アブノーマルな性癖の裡には、たしかに愛が潜んでいる。情事という、やましくはないが、どこか生活や世間に対しての背徳を抱えた特殊な行為を通して、そこに2人の間だけで通用する暴力を重ねる。理解できないものを、必死で理解しようと努める、人間の儚い営みがそこにあると僕は思う。
色んな人のいろんな性癖に合わせた風俗店がある現代、アブノーマルな性癖それそのものが愛の側面を表しているものだと僕は思わない。重要なのは、世間から隔離され、生活から切り離されたある一点、すなわち情事、それがいかに閉塞的であるかということである。
愛は当人の目にすら届かない、深い闇の中にしか宿らない。
たとえば情事の際に蝸牛を用意して、それを相手の背中なり腹の上に乗せ、蝸牛の引きずる粘液を眺めながら腰を振るのが好きだという男があったとしよう。女はそれを理解できないが、しかし惚れた男のため、理性を超越した愛の力をもってそれを受け容れる。男が女を、女が男を、世間から隔離された、非常に閉塞的な性癖の中で、求め合う。こう考えてみれば分かりやすい。

情事の時に愛を囁いたり、相手の名前をただ叫んだりするのは、それが閉塞的であるが故である。当人たちは意識していないが、その暗がりに愛が宿っているのを本能的に知っている。そしてそれに触れられないことも知っている。触れられないからこその愛だということも知っている。そしてそこに快感が差し挟まれている。滑稽で不気味で、湿っぽくて陰湿で、静謐な人間の愛。

とはいえ僕は、アブノーマルな性癖を表に出して、マイノリティを主張し、我こそが愛の実践者たるを示す人間を、あまり好きにはなれない。それは単なる派手好きだから。

僕は天才、あなたも天才

僕はよく、自分のことを天才だとか、人より優れているといった言い方をする。
ではその証拠を見せてみろと言われれば、驚くほど何もない。学歴は中卒で、手取りは平均。顔もイケメンとは言えず、さりとて身長が高いわけでも、スタイルが良いわけでもない。RADWIMPSの『前前前世』を替え歌して、「父のチンチンチンポから僕は 世に爆誕したんだよ」とか言って一人で大笑いしている。こんな男は、天才云々よりむしろ精神病棟にブチ込むべき何かである。

僕ももう25歳になり、立派な「大人」の仲間入りを果たした。そろそろ、人様から何かを享受するのは自重して、人に何かを享受することを学ばなければいけない。
といってろくに学もない僕が、筋道立てて論理的に話を組み立てたてて説明してみたところで、最後には胡散臭い説法じみてくるのがオチだろうから、ここは素直に、たとえ論理が破たんしていたとしても、誰かにとって有益であろうと信じてこんな話をさせてもらう。

あなたは天才

まず、すべての人は、今すぐ自分を天才だと信じ込むべきである、と僕は考える。
こう言うと、即座に「そんな実績はありません」「自惚れるのは嫌です」とかなんとか尤もらしい返事が返ってくるが、僕に言わせてみれば、それは謙遜によく似た卑屈な精神そのものであったり、世間向きの体裁だけは向上心に溢れているといったクサい人種に他ならない。
自分のことを天才だと思い込むには、まずもって自己矛盾を抱え込む必要がある。矛盾を抱え込むなんてたいそれたことだと人は言うかもしれないが、それは大きな誤解である。
「自分は天才である」という認識には、確固たる事実が存在しない。あなたは自分を大ばか者だと思い込むことはできず、したがって天才だと思い込むこともできない。裏を返せば、あなたは即座に大ばか者に成り得るのだし、天才にだって成り得るのである。
確固たる事実が存在しないというのは、言い換えれば、自分を天才だと思い込むのに必要な材料は何一つないということである。あなたがどれだけ情けない人生を歩んでいようと、輝かしい経歴を持っていようと、そんなものは材料に成り得ない。こう考えると、なんだか心が非常に楽ではないだろうか。
多くの人は、つり橋を渡るにはそっと歩くのが鉄則だと頭から決め込んで、「自分は大ばか者だ」と思い込んで生活している。しかしそのつり橋が、実は案外頑丈なつくりだったとしたら、どうだろう。
自分を天才と仮定すること、大ばか者と仮定すること、その選択肢は世間や社会にあるのではなく、ただ自分の中にのみ存在している。まずそれを知ったうえで、自分を天才と仮定しておくのである。
はじめにこの自己矛盾を受け容れられない、知らないから、自分を大ばか者と信じている人は、自分の選択によってもたらされるあらゆる制裁にしょっちゅう文句を言っている。あなたが自分で自分を大ばか者だと決めたのなら、世間があなたを大ばか者として扱っても文句は言えないはずである。
大ばか者だから、男で苦労ばかりする。大ばか者だから、仕事が上手くいかない。大ばか者だから、奥さんの尻に敷かれる。こんなものはすべて当たり前である。しかし、自らすすんで自分を大ばか者と仮定した人たちは、「あえて辛い道を選んだのだから、何か良いことが待っているはずだ」とか、「これこそが人生の試練なのだ」とか、「傲慢な奴はきらいだ」等と言う。
僕が自分を天才だと思い込んで生活している理由は、おおむねこんなところである。誰をも僕を規定するものはないし、よしんばあったとしてもそれは「僕が」規定したものではない。それはAさん、Bさん個人の中の規定、彼ら個人の中にある「僕」であって、「僕個人」には全く関係が無い。

制裁は人任せ

しかし、「出る杭は打たれる」という言葉が示す通り、常に自分を天才として扱い、振る舞っていれば、相応のしっぺ返しは免れない。それは、社会や組織や対人関係といった形をもって、制裁を加えんとしてくる。
臆病が板についてしまった人は、ここのところがどうもネックになって、自分を天才だと思い込むのを躊躇してしまうかもしれないが、しかし、安心して次の言葉を聞いてほしい。
まず、自分を大ばか者だと信じている人は、しっぺ返しの権利を自分の中に持っていて、常に自分に対して制裁を行っている。自分で自分を折檻する男を想像してみると分かりやすいが、クソ滑稽である。そういう性癖なら仕方がないが、ともかくクソ滑稽である。
自分の中にしっぺ返しの権利を持つ「大ばか者」も、やはりこのセルフ折檻マンと同じで、クソ滑稽である。向上心の裏返しだとか何だとか自分をだましだまし、その実肝心の制裁は自己嫌悪といった何の実も伴わない形をしていることが多い。そのくせ、ちょっと他人に「おまえはだめだ」等と言われたら、自分は大ばか者であると重々承知して生きているはずなのに、大変なショックを受け、即座にホームセンターとかに行って首吊り用のロープを探すに至る。
自分を天才だと思い込んでおけば、自分に対するしっぺ返し、すなわち制裁の権利を丸ごと世間に投げてしまって、自分で自分を罰する権利を放棄できる。自分を制裁する権利はすべて他者にあるのであって、自分にはないという自由な精神を手に入れることができる。
誰かに叱責を受ければ、自分は自惚れていたと気付くことが出来、また悪口を言われれば、天才に嫉妬するのも無理はないと考えることが出来る。天才だと褒められれば、やはりそうか分かっていたさと納得できる。はっきり言ってこれはメッチャ無敵である。こうなった人間は、ナイフで心臓をブチ抜く以外殺す方法は無い。
「自分は馬鹿で天才だ」という自己矛盾を、正しく自分の中に収められている人間は、非常に強い。僕がその良い例である。こんなナリでこんな不出来でも、人の罵詈雑言は気にならない。
尊敬する人の有益なアドバイスはきっちり拾い、家に帰って検証するのを忘れない。
何故なら、僕は天才だから。

強者と弱者

三島由紀夫の著書、「不道徳教育講座」で、彼は「弱い者をいじめるべし」と題して、次のような一文をしたためている。

…私がここで「弱い者」というのは、むしろ弱さをすっかり表に出して、弱さを売り物にしている人間のことです。この代表的なのが太宰治という小説家でありまして、彼は弱さを最大の財産にして、弱い青年子女の同情共感を惹き、はてはその悪影響で、「強い方がわるい」というようなまちがった劣等感まで人に与えて、そのために太宰の弟子の田中英光などという、お人よしの元オリンピック選手の巨漢は、自分が肉体的に強いのは文学的才能のないことだとカンチガイして、太宰の後を追って自殺してしまいました。これは弱者が強者をいじめ、ついに殺してしまった恐るべき実例です。

また、彼はこうも書いている。

しじゅうメソメソしている男がある。抒情詩を読んだり、自分でも下手な抒情詩を作ったり、しかもしょっちゅう失恋して、またその愚痴をほうぼうへふりまき、何となく伏目がちで、何かといえばキザなセリフを吐き、冗談を言ってもどこか陰気で、「僕はどうも気が弱くて」とすぐ同情を惹きたがり、自分をダメな人間だと思っているくせに妙な女々しいプライドをもち、悲しい映画を見ればすぐ泣き、昔の悲しい思い出話を何度もくりかえし、ヤキモチやきのくせに善意の権化みたいに振舞い、いじらしいほど世話好きで……、こういうタイプの弱い男は、一人は必ず、諸君の周辺にいるでしょう。こういう男をいじめるのこそ、人生最大の楽しみの一つです。

文豪太宰治もここまでボロクソに言われては浮かばれない。

さて、三島由紀夫の言うこれは、人間社会における「弱肉強食」を端的に表したものである。
引用した文章には三島個人の感情が入っているっぽいので論理が一方向であるが、しかし、彼は自分の筆ではっきりと「弱者が強者をいじめ、ついに殺してしまった恐るべき実例」と書いている。これはつまりどういうことかというと、人間界においては「弱者が強者になる」こともあり得るのである。
結果論的な考え方になるが、弱者に殺される強者ということは、弱者の方が一枚上手だったということである。三島由紀夫が脳筋だとすれば、さしずめ太宰は毒使いといったところか。
毒キノコなんかでもそうで、奴らはただ森に生えているクソ雑魚に過ぎないが、しかし劇毒を持つ個体もある。喰われて、喰らった相手もろとも殺す。これは、強さの持つ一側面と考えることもできないだろうか?

ではなぜ、強者は弱者に殺されるのだろうか?僕はこれを、強者もまた弱者と同じ人間に過ぎないからだと考える。
人間が唯一持っている力は、「愛」である。これはまず美しく、同時に儚く、強くもあり、脆くもある。愛ゆえに、強者は弱者に殺されるのである。
強者が弱者を愛する時、強者の敗北は確定し、立場は逆転する。弱者は愛の力を持って強者を籠絡し、強者は愛の力を持って弱者に負ける。
ここに一人、筋骨隆々のたくましい男がおり、彼はまた愛する妻と子をその身一つで養う精神力と経済力をも兼ね備えているとする。
彼は肉体的にも精神的にも、社会的にも強者である。がしかし、僕のような薄給の気狂い男が癇癪を起し、彼不在の自宅にナイフを一丁持って押し入って、妻と子を人質として立て籠もった場合、どうなるだろうか?
結論はすぐに出る。強者は降伏する。それは僕が恐ろしいからでも何でもない。僕なぞ彼の膂力をもってすればワンパンでブチのめせるからだ。彼が負けるのは、弱者である妻と子を愛しているからである。愛ゆえに人は脆くなり、愛ゆえに人は強くなる。ここに、「弱肉強食」では済まされない人間社会の、宿命にも似た哀愁を感じる。