4月の読書

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・三島由紀夫 / 命売ります

由紀夫ちゃんの中でもこれは、だいぶ読みやすい部類に入るのではないかと思う。これはあとがきで知ったが、この作品は若年層向けの雑誌『プレイボーイ』にて連載されていたものらしい。納得。
『ライフ・フォア・セイル』の看板を掲げ、生きてゆくことの意味をもっぱら他人に預けて暮らそう、死んでもともとだ、という主人公の投げやりかつ怠惰な姿勢は、現代でも通ずるものがあると思ったし、着想としては凡庸の域を出ないと思った。
しかしそこは由紀夫ちゃん。やはり緻密な心理描写(とはいっても、ずいぶん抑えられてはいるが)と、キレのあるお洒落な比喩によって、きちんとした読み物として完成させている。
とここまでは作品に関する批評だが、僕はこれを読んでいて、何か、由紀夫ちゃん自身の命に対する考え方、姿勢みたいなものが、祈りに近い形で投影されているように思えた。
主人公ははじめ、本当に死んでも良いつもりで、危険な橋を渡りまくるが、そうしているうちにいつか、自分が他人の意思によって命を捨て去ることを拒んでいることを発見してしまう。これ、言ってみればユーモラスかもしれないが、作中ではその心境がきわめて悲痛に描かれていて、哀愁すら感じさせる。
どうしたって、命は自分のものでしかない現実。自分の命は自分で生き抜くしかない苦しみ。物語の前半、主人公はある種の全能感を持って人生を闊歩するが、しかしそこには生きた肉の匂いはしない。当たり前だと思う。彼は生きることを放棄した屍なのだから。
後半、自分がもはや命の奴隷であることを悟った主人公は、「生きるため」翻弄する。そこには確かに血の流れている感じがするし、肉の感触だってする。生きると言うことはすなわち、死することの否定なのか、それとも……。

 

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・ドストエフスキー / 永遠の夫

久しぶりに手に取ったドストエフスキー。
この作家のすごいところは、人間というものを余すところなく描いているところにある。
まさに、「善くあろうとしながらも、そうあれない憐れな人間」が、圧倒的な写実でもって表現されている。僕がドストエフスキーを好むのは、主にこれがあるから。
「地下室の手記」でさんざん語られたように、彼は一貫して、「理性はより良い社会をもたらさない」「人間の本質は非合理的なものである」という確信に基づき執筆を行っている。「永遠の夫」のトルソーツキーにしたってそうである。本能と理性の狭間で苦しむ一個の憐れな男の姿が、そこに明白に描かれている。
『夫の座にしがみつくしか能の無い…』、などと説明されると、なるほどこれは、主体性を持たない男が、妻という戒律の下でしか生きられないという、そういうことを説いた話だな、と早合点してしまいそうなものだが(実際僕はそういう風に思って読み始めた)、実際はもっと込み入っていて面白かった。
ドストエフスキーの作品の特徴として、女に翻弄される男、というのがしばしば登場する。もっと言うと、作中の男は自分のカルマをちゃんと理解したうえで、それでもどうにもならないと半ば諦観して、半分すすんで自ら女の中に身を投じていく。この構図を俯瞰するのが一番面白い。トルソーツキーは、たしかにごろつきの、クズ野郎の、能なしスカポンタンかもしれないが、でも僕も男である以上、どうして彼を苛めようか……。

 

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・ドストエフスキー / カラマーゾフの兄弟 【上巻】

「永遠の夫」を読んで、人間同士のクソみたいな愛憎劇に身を投じたくなったので手に取った。
上中下巻がそれぞれ600ページ近くあるのと、内容が非常に難しそうだったのでビビッて手をつけていなかったが、丁寧に読み込んでも一週間ほどで読了してしまった。
読み終えて、これこそが小説なんではないか、と思った。俗物のフョードルの血をそれぞれ引く三兄弟たちの、苦悩や葛藤。カルマに翻弄されるちっぽけな人間どもの姿が、そこにありありと描かれていた。これは、小説でなければ表現し得ないものの一つだと思う。
個人的に印象に残ったのは(ありすぎて絞るのも難しいが)、第三編『好色な男たち』より、『熱烈な心の告白』。人ん家の庭にある掘っ建て小屋の中で、長兄ドミートリイがコニャックをやりながら末っ子のアレクセイに対して披瀝するシーン。ここが、本当に包み隠さずドミートリイの苦悩と生きざまについて語られていて、男としては少なからず共感せざるを得なかった。何の論理もクソもない、突飛なドミートリイの行動を支えているのは、『カラマーゾフの血』…。あゝ…。
次に第四編『病的な興奮』より『すがすがしい大気のなかでも』から。二等大尉スネギリョフが、アレクセイから受け取った200ルーブルを、地面にたたきつけて踏みにじるシーン。
この二等大尉にはドミートリイとの確執があり、アレクセイは言わずもがなドミートリイの弟。アレクセイの渡した200ルーブルは、ドミートリイの許嫁カテリーナから預かったもので、言ってしまえば「見舞金」、ぜんぜん受け取っても良かったのだが…。
スネギリョフは貧しいながらも(いやたぶん、貧しいからこそ)誇り高く、その200ルーブルを踏んづけて振り向きもせず帰っていく。まさか自分がそんなことをするとは、スネギリョフ本人もその瞬間までは知らなかったというところが、涙を誘った。加えて、一切侮蔑の感情を抱かず、ただひたむきにスネギリョフの誇りを称えるアレクセイの純潔…。もうたくさんだ!
第五編『プロとコントラ』のラスト『大審問官』は、結構難解だったので一回では理解できなかった。神(おもにキリスト)と人間の間にある欺瞞であるとか、そういったものに対して、次男のイワンがアレクセイ相手に熱弁を振るうといった内容で…まぁ、中巻を読む前にもう一度読み返してみようと思う。

 

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・ドストエフスキー / カラマーゾフの兄弟 【中巻】

上巻を読み、そのまま流れるようにして読んだ中巻。印象に残った章を列挙する。
まずは第六編、『ロシアの修道僧』から、ゾシマ長老の生涯と説話。
かつて俗世に身を置いていた長老が、如何にして悟りの境地に至り、この道に足を踏み入れることになったのか、その経緯が説法調で語られる。編纂はアレクセイが担当。
10数年前に非道な殺人を犯したという「神秘的な客」の訪問と、それにまつわる「客」の葛藤、そして長老の献身によってついに「客」が改心を果たす一連のシーンは、心を打たれた。長老は「客」の妻に、何十年も前の事件を今更掘り返して夫を苦しめ、神経を衰弱させたとして、責められる。このどうしようもなさ。
「人間は、行い正しき人の堕落と恥辱を最も好む」……努々忘れぬようにしなければ。

次に、第七編『アリョーシャ』から、挿話『一本の葱』。
要約するとこんな感じ。
あるところにクソ性悪女が住んでいて、死んだあと地獄に送られた。
その女の守護天使は、どうにかしてその女を救いたいと思い、何かしらその女を救うに値する善行を、生前この女が行っていなかったかと考え、やっと、野菜畑で葱を一本引き抜いて乞食に与えた、という善行を思い出した。
守護天使がそのことを神に伝えると、「では、その女に一本の葱を差し伸べてやり、それを女が掴んだら引っ張り出して地獄から救ってやるが良い。できなければそれまでだ」と答えた。
守護天使はその通りにし、女に葱を掴ませ、引っ張り上げた。成功したかと思いきや、女の足に他の罪人がしがみつき、一緒に引き上げてもらおうと必死になっているのが見えた。それを見た女は怒鳴り散らし、他の罪人を蹴落とそうとする。すると葱はぶつりと切れ、女はまた地獄へと真っ逆さまに落ちて行った。
……芥川龍之介の『蜘蛛の糸』に酷似しているが、無論、ドストエフスキーはそれを出典とはしていない。別のを参照したのだろう。
この挿話は、娼婦と揶揄される女グルーシェニカが聖人アレクセイに語って聞かせたもの。
かつて自分を手ひどく捨てた男を、赦せるかどうか、とアレクセイに尋ねるグルーシェニカに、アレクセイは「だって、もう赦しているじゃありませんか」と説くシーンは、本当に感動した。この時点ではまだ分からないものの、グルーシェニカがその男を完全に赦してしまえるなんていう確信は僕はまったく持てなかったし、ただ、心清いアレクセイの「正しき」行いに、心酔した。ラキーチンがブチ切れるのは最もだし、なにか一種の異常な熱気があの部屋を包んでいたとはいえ、アレクセイの行いは称賛されるべきだと思う。たとえ徒労に終わっても。むしろ徒労に終わるからこそ。

第八編『ミーチャ』。
ドミートリイのナイーブな感性、神経質な性格がありありと読み取れて、メチャクチャ面白かった。どんちゃん騒ぎのさなかでも顔を出すドミートリイの臆病な性質や、愛らいしいじらしさが人間くさくて、共感できる点も多々あった。尋問されながら、検事たちを疑いまくって拗ねてろくすっぽ調書も取れないドミートリイの騒ぎっぷりも面白い。一見すると意味不明ながらもその心理が手に取るように分かってしまうのは、さすがといったところか。特にドミートリイが3000ルーブルの出所をメチャクチャ言い渋った上にがんばって暴露したら、些末すぎてその場にいたみんなに爆笑されてしまうシーンは心に響いた。ああいうことって、本当にままある。本当に本当によくあることだ。
傍から見るとアホくさくて仕方がないグルーシェニカとドミートリイのロマンスも、悲壮感に溢れていて涙を誘ってきて良かったな。