無題

今日の金沢は終日雨。ところにより強風、雷。少し荒れている。
紋切り型の日常を淡々とこなせるぐらいには心に余裕がある。おれにとって「若さ」は邪悪なものでしかなかった。四捨五入して30歳のこの歳でようやく、人生の何たるかを学んだ気がする。むやみに棘棘したものや危なっかしいものに惹かれるだけが「若さ」ではない。だれかの不幸話に憧れたりするのは想像力と経験の深刻な欠乏。生きるということの泥臭さを諦めて、甘美な毒沼に脳みそをとっぷり漬けてるやつのしょうもなさよ。人間同士の本気の殴り合いの喧嘩が、ドラマに見るような溌剌さを一切含まず、ただ流血の繰り返しだということを知ってる人は一体どのくらいいるだろう。思いのほか多くてもおれにはどうでもいいし、思いのほか少なくてもどうでもいい。おれはおれの道を往くし、相容れない人は相容れる者同士でヨロシクやってくれればいい。心配することはない、誰もがそうやって生きている。地球上の半分はおれの敵で、半分はおれの味方。だいたいがそういうもんでしょうが。

会話において、どうも大人になるにつれ、舵取りを余儀なくされている感覚が否めない。本当はややこしい前提や環境や相手との関係性を無視して、一本まっすぐ通った説を貫きたい。あれこれはこうであるからこうであって、これこれがどうであるからこうである、みたいなのは、処世のためよんどころないといった感覚が否めない。人それぞれがタイプの異なる協調性を発揮して、それぞれが反応しあって生きていく人の世は大変だ。
会社でメンチカツゴリラの話題が出たので、佳境で「人と仕事しているっていう感覚が希薄なんでしょうね」とだけ言っておいた。不愉快なものを見たり聞いたりしたとき、それがずっと頭に残るので厄介だ。おれはおれが思う以上に、世間に対して厳格なのかもしれない。扉が閉まっていて、その向こうがまさに社会であるという場合、おれはひたすら厳格になれるが、ひとたび扉が開いて様々な人や事物が目に入ってくると途端に寛容になる。だからおれは腐っても社会とのつながりを持ち続けなければいけない。そうでなければいつか熱病に浮かされて、湿った畳の上で臨終を迎えることになるだろうから。穿ったものの見方は大いに結構だと思うが、ある時点で矯正に至るそのタイミングを否定するような人間にはなりたくない。それは単に父の踏襲になる。金丸家に流れる放埓と淫蕩の血をおれは断ち切ったのだから、おれはこれで生きてゆく。おれを指して歳の割に所帯じみてると蔑むやつ、大いに歓迎する。おれはずっと前から心の底で祈っていることがある。おまえらの蔑んだ凡庸な生活が、おまえらにとって最も大切であったということを、人生のどこかで歯茎から血が出るぐらいに後悔しますように、と。そうやって死んでいった奴の墓石なら、どの街にも腐るほど建ってるだろうが。