Nの45

両肩、腹、腰の4か所にホッカイロを叩き込んで出社した。妻のアイデアである。
体の外に熱源を設置するというのが、なんだおれには姑息的療法のような気がして受け入れがたい。事実、それで全身暖められたかといえばそうでもなく、ただ両肩と腹と腰が熱いだけだった。学生の時分、嬉々としてポケットからカイロを取り出して撫でこすっている奴がいたけれど、当時からそんなもん意味ないだろと明言していた。しかもカイロを常備している奴に限って手汗をかいていて、何か本末転倒の感じがした。

仕事をしながら、世の男どもは女子を作品として見ているのではないかという天啓に当たった。脂ぎった中年おやじが妻を捨てて若い娘と不貞を働くのはいつの世も変わらぬことで。モソモソ近づいてきては曖昧な文言をさんざん口にして篭絡した挙句、おれはきみなんてはじめから知らなかったし、今後も知りませんよみたいな顔してふらっと去っていく長身痩躯(諸説あり)の若い男。彼らはみな女子を一つの人格と見做さず、(おそらくは自分にとっての)作品として接している。若い妻を娶ったはいいが、数十年してみたら妻には「作品」としての価値が片鱗も残されておらず、あるのはただ人格のみ。どうやら世の男たちはこれに耐えられないらしい。そういえば妻が言っていた。「イケメンは極力喋らないでほしい」。たしかに、黄金比を守って彫刻された石膏像がいきなり話し始めて、しかもそいつが存外ポジティブ思考だったりしたら、ガッカリする人はさぞかし多いだろう。誑かす方も誑かされる方も人間。おれは一足先にそうした愛憎劇から「一抜けた」してやったので、あとは俯瞰して研究成果をノートにまとめるだけでよい。それが何の役に立つかは分からない。

それと、自由を求めておきながら、孤独を恐れたり嫌ったりする人々の心理の矛盾についても考えていた。自由を享受するということはつまり、孤独を受け容れることだというのは教科書の一ページに書いてなかっただろうか。人のおせっかいには激しく嫌悪感を示す癖に、淋しい夜には人肌を求めて、曖昧な甘言にふらりふわり。ヒッピーやってんじゃねえんだよ。おれにはわからない。分からないけど理解はできる。人間というのは思いっきり物わかりの悪い大馬鹿だから、そういうことがあっても珍しくはない。愛されたいと嘆く人ほど、愛を拒絶しているというのは興味深い。きっとこういうことだ。つまり人間の頭の形や心の形がそれぞれ違うように、信じる愛もまた人それぞれ違う。ある人は一緒に入水自殺をしてくれるのが愛だと信じて疑わず、ある人はそれを多感な時期に誰もが陥る一過性の退廃主義に過ぎないと一蹴する。両者はおおむね分かり合えない。それぞれ信じる愛があって良いと思う。なぜかというと、誰がどんな愛を信奉していようと、おれには全く関係ない話だから。