吸血鬼はなぜエロいか

今読んでいる三島由紀夫の『命売ります』という小説の中に、吸血鬼が出てくる。この場合、十字架や日光の苦手なあの「ドラキュラ」ではなく、単に吸血を嗜む普通の人間のことを差す。
作中の吸血鬼は、妙齢、色白、未亡人、と、これでもかとエロスの要素を満載して描かれている。ここで僕は1つ疑問に思った。「なぜ、吸血鬼にはエロいイメージがついてまわるのだろうか?」気になったので、ちょっと考えてみることにした。

Netflixのドキュメンタリーの中に、『世界の現実旅行』というものがある。「ダーク・ツーリスト」を自称するジャーナリストのデイヴィッドが、世界の「ダーク」な場所ばかりを冒険して回る、という内容。
その中で、吸血鬼として生きる人々を取材した回があった。
はじめ現れたのは若いカップルで、女性の方は目も眩むほどの美人。肌の色は病的なほど真っ白で、おっぱいはこれでもかというほど大きいのに垂れていない、完璧な肉体だった。
彼らは吸血を何か「前戯」のようにとらえている節があって、デイヴィッドもこれに関しては苦言を呈していた。「それは単なる前戯じゃないの?」と突っ込むデイヴィッドに、うつむいて頬を染めるうら若き二人。テメーらイチャつき方がちょっと常軌を逸してるだけじゃねーか!
ちなみに彼らの吸血は、首筋にカブリと咬みついて血を吸うわけじゃなく、指先をちょっと切ってそこから吸血するといった、まぁ、至極現実的な方法によるものである。あとやたらエロい。
僕としては、犬歯を鑢で研いでキンキンにしてから、動脈めがけてガブッといくような、そういう方が興奮すると思う。吸血される側はたぶん死ぬけど。
一風変わったカップルのイチャつきを見せられたデイヴィッドは憤慨し、モノホンを探し求めてついに『吸血鬼が集い生活するコミューン』にたどり着く。
そこはなんだかゲットーな雰囲気に満ちていて、美人も居ればごくごく普通のおっちゃんもいる。少年も居る。
吸血の方法は、デザインナイフのような刃物で背中の一部に傷を付け、そこに唇を押し当てて血を飲む、というもの。背中といえば普段人目に触れない場所でもあるし、より秘匿されている感じがあって、なんだか生々しい。

さて、話を戻そう。なぜ吸血鬼にはエロいイメージが付き纏うのか。

たとえば、血を飲むという行為、むしろ血を飲まなければ生きられない、というライフスタイルは、生への渇望を彷彿とさせる。たとえば僕の血が、誰かの喉を通ってその人の体内に染みわたるというのは、やっぱりそれはそれでエロい。「イケないこと」をしているという背徳感、生き血を飲むと言う狂気性、その裏で見え隠れする生と死と愛。血を飲む人は、吸血という行為を通して、こうした深淵にそっと触れている。
きりりと冷えた真っ白い肌に、体温を保持したままの温い鮮血が滴るさまは、美しい。触れられない静謐なものを自分の血によって穢す不毛の悦びもあるのかもしれない。
思えば、僕たち男子は、美しい女体を見たときに、一瞬、破壊衝動のようなものを覚える。この綺麗なものを、愛しいそれを、自分の手によってブチ壊して、滅茶苦茶にしてやりたい、という抗いがたい衝動が、心の奥でパチンと弾けるのを感じる。尋常であればそれは芽生えたと同時に鎮火していく。その鎮火の最中にこそ真の情欲が潜んでいるのだということを、僕たち男子は無意識下で熟知している。
吸う ↔ 吸われる という関係は、 挿入れる ↔ 挿入られる という関係にどこか似ている。セックスにおいて人は、挿入する方もされる方も、どちらも同じ快楽を共有している。この点で、吸血という行為はほとんど挿入と同義と言っても過言ではない。吸う方は、愛しくてたまらない相手の血が、今まさに体内に流し込まれている(それも、自分の意思によって)のを感じて興奮するし、吸われる方は、同じく愛しくてたまらない相手に、自分の血が吸われている(あるいは差し出している)ことに興奮する。

吸血までいかなくとも、情事の際に相手の身体を噛む、歯型をつける、という行為は、しばしば見受けられる。性的嗜好といってしまえばそれまでだが、そこに何か本質が宿っている気がしてならないのは、僕の頭がおかしいからだろうか。確かめるためには、僕も誰かの血を吸うか、誰かに血を吸われねばならない。

都会と田舎

都会に瀰漫している無機質・無関心の空気感を、隔てられた彼方の地方から夢想して、それに心を奪われてしまう人は多い。
地方に住みながら、地方をこきおろしている人の姿を見ると、自己嫌悪とよく似ているなという感じがする。都会に憧れる人間が往々にして若年層であるのを鑑みると、この感覚はなかなか間違っていないように思う。
林立するビル群や、交差点を行き交う人々の中で、ただ自分だけの生活に没頭し、何者にも阻まれず、狭い都会で思いっきり羽根を伸ばして自由に生きたいと願うのは、別に不自然な感情ではないと思う。地方は何かと不便だし、見ようによっては、都市生活から産まれた文化のおこぼれを啜って生きているようにも思えるからだ。

さて、金沢。僕の住むこの街は、言わずもがな地方都市で、東京を大都会として考えたときに『その他諸々の地方都市、田舎』に分類される、何の変哲もないごくごくふつうの街である。
僕も若さの必修として、都市生活に憧れたことはあった。他の人のそれとはまったく程度の異なる、微々たるものではあったかもしれない。それでも、無機質なコンクリートとプラスチックの品々に辟易しながら、暗くて狭いワンルームでカップ麺を啜り、サトウのご飯をレンチンする日々を切望したこともあった。
けれど僕は、そんな夢想が戯れであることは承知していた。僕は別に金沢を出たいと強く思ったことも無かったし、それに、何をやるにしても、別に東京でなければできないなんてことはないと、おぼろげながらに考えていたというのもある。
僕は金沢が好きだし、この街で育ってきたことに誇りもある。たしかに田舎、たしかにその他諸々の地方都市に数えられるかもしれないけれど、でもそんなことと僕の生活は何の関係もない。この僕、かけがえのないこの僕を産み育て、そしてかけがえのない人たちとの邂逅をもたらしてくれたこの金沢という街を、愛さずして愛を語れるはずもない。

都会と田舎について考える時、僕はどうしてもSとIの姿が浮かぶ。少し紙面を割いて、両名がどんな風にして都会と付き合い、また金沢と付き合っているのか、参考にしてみようと思う。
まずS。彼は一口に言って、俗物である。地主の息子として育ち、不自由なくそこそこの放蕩生活を送るうち、むらむらと地方コンプレックスが湧き上ってきたとみえる。大学への進学を機に関東へと移り住んだ。(この時の理由は、「金沢に住んでいてもダサいから」だったように思う)
しかし、関東での生活は1年ほどで頓挫。彼は青い顔をして金沢に戻ってきて、ほどなくして結婚し子供をもうけた。こないだ久々に会った時は、生活に追いやられた男の、どうしようもない負のオーラがめらめら立ち昇っていて気の毒だった。
次にI。彼もSと同時期に関東へと移り住み、今の今まで上手にやっている。なにか喫緊の心配事がある風には見えず、たまに金沢に帰ってきたときは、関東に住む以前と何も変わらないようにして大笑いしている。ウーバーイーツだのなんだのといったものについては、彼の土産話がきっかけで知った。彼の話の多くは建設的で、会うたびに進捗が更新されていく。近々、今の会社で学んだノウハウを活かして独立をしようと考えているらしい。はてさて、この両名の違いは何なのか。

思うに、Sは”田舎=ダサい”という固定観念に内包される形でアイデンティティが存在している。これは言い換えれば、都会にさえ住んでいれば、自分は無条件に「何者」かになれる、という考え違いである。よくある話だ。マジでよくある。それはいいとして、では彼は何者になれると錯覚したのか。
田舎に住んでいるとよく分かることだが、田舎の若い人というのは、都会の文化のおこぼれを啜って生きているという強い実感がある。白痴の大阿呆なら、希釈されまくった田舎の文化それがオリジナルだと頭から思い込み、貧乏くさい放埓に身を投じることもできるが、彼は自分なりにいろいろと考えて、文化の中枢に行きたいと考えたようだ。それに、単なる放蕩生活でも、都会でやると一種のファッションみたいになってかっこいい、とでも考えたのかもしれない。
文化の中枢に行けば、927万人の「クリエイター」に紛れ込んで、微力ながら自分も文化の担い手になることができる。きっと彼はそう考えて関東に行ったのだろう。でも彼を迎えたのは、無機質で無関心なコンクリートジャングルと、いつ訛りが出てしまうかとビクビクしながら会話するみじめな自分自身だった。それで彼は帰ってきた。

Iは、関東に住みながらも、常に金沢を意識していた。そして都会を「ツール」として「活用」していたように思う。自分の根が張っている、幹があるのはまさにここ、金沢であり、関東へは枝を伸ばしたに過ぎない、と、そういう風な実感が彼の中にあったのではないかと思う。植物が枝を伸ばすのは、たぶん光合成を効率良く行うためとかそういうことで、人間で言えばそれは教養であったり知識であったりする。心がここにあるからこそ、安心して都会に身を置くことができる。故郷とは本来、そういうものなんじゃないかなと思う。何かを愛していなければ、何かを愛することも決してできない。ありのままの故郷を受け容れることは、自分自身を受容する事ととても似ている。

たばこ

「もうすぐ絶滅するという煙草について」という本を読み、僕も一喫煙者のはしくれとして何か書いておくのが礼儀だろうと変な義務感に唆されたので、ここは素直に従って、こっそり何事かを書き記しておくこととする。

— — —

僕が本格的に煙草を吸い始めたのは16の頃。理由としてはなんでもない。他者と自分の間に一本線を引いて、区別したかったからという至極つまらないものだった。
はじめの頃は、母親の煙草をこそこそとせしめて自室で吸うというのを繰り返していたが、やがて学ランさえ脱げば自分でも調達出来ることに気付き、普通にコンビニとかで買うようになった。
喫煙が学校に発覚し謹慎処分を受けるたびにやるせない気持ちになったが、僕は決して煙草をやめなかった。禁煙を志しても、2、3日するとあの紫煙が郷愁と共にやってきて、中毒症状以上の何かを引き起こしてくる。海が見たい、バあの曲が聞きたい、というのとなんとなく似ている。そこで一本、お気に入りの銘柄を背徳と一緒に吸い込むと、これがまたなんとも言えず美味かったのをよく覚えている。
不思議なのは、これのせいで苦しめられたことは多々あるのに、それでも今なお煙草を憎んではいないことだ。むしろ僕は煙草を愛してさえいる。喫煙の習慣も儀礼も愛している。何故か。
僕が自分自身に対する考察を深めていた時期、そこには常に煙草の影があった。何故こんな、害しか無いものを喜々として吸引するのか、何故煙草に火を点けるあの一瞬間は、あんなにも愛しく美しいのか。するとおぼろげながら、自分が無駄なものばかりを愛する性質を持ち合わせているということが見えてきた。僕はどうやら、理に適ったことを本能的に嫌悪する厄介な性格の持ち主であるらしい。煙草なんていうクソの役にも立たないそれを愛している自分に気付いた時、湧き立つような喜びが胸に去来したのをよく覚えている。僕は不必要なものをちゃんと愛せる人間だ、と。
自分の性質に気付いてからは、喫煙がより一層楽しくなった。それであらゆるものに手を出してみた。シガリロ、葉巻、手巻き煙草、水煙草……。煙草を消耗品と捉えるよりむしろ、何か創作活動のように考えていた節が無いでもない。創作活動と言うのがいささか大仰過ぎるのであれば、趣味と言い換えるか。
クタクタの頭と身体で吸う煙草は、何か格別の感じがする。煙が肺を慰めてくれているとでもいうのか、しとりと体に染みる感じがよく分かる。そんな時は、いつもより深く煙を吸い込んで、ちょっと肺に溜めてから、ため息混じりに煙を吐くと、生きている心地がして機嫌が良くなる。

この本の中で、煙草は生活の中に空白を産み出す道具だと述べているものがあって、これにはなるほどと思った。煙草とは、何もしていないをしている状態そのものであって、これがつまり1日のうちの空白になり得る。空白、というのが引っかかるのであれば、余白と言い換えても良い。生活を規定するあらゆるものから、自己を遠ざけるパディング、とでも言うか。
そう考えれば、クタクタになった時ほど煙草が美味いのもまた、納得できる。長時間デスクワークに勤しんでいた人が、ふとディスプレイから目を上げて伸びをするときのあの快感に似ているのかもしれない。ぐぐっと余白のできる感じは、凝り固まった節々を伸ばしてほぐすのに、よく似ている。煙草はまず間違いなく、精神を弛緩させる作用があると見て良いだろう。

現在、煙草のパッケージには、何やら説教がましい文言があれこれと書き連ねてある。外観のデザインを損なうといって毛嫌いする人の気持ちも分かるが、しかし僕はこれはこれで結構気に入っている。この口やかましい感じが、なかなかどうしてひとつのデザインとして成立していると思っている。四角い罫線に囲まれた、きわめて無機的で無関心な文言。それすら愛してこそ、真の喫煙者を名乗れるのではあるまいか。風にたゆとう煙のごとく、のらりくらりふらりふわりと、街のそこここをタールで汚して回る我ら煙草呑みは、現代に於けるレジスタンスである。マナーや常識、時代の潮流といった見えざる何ものかに、ささやかに抵抗する哀しき少数派である。

— — —

次に女性の喫煙について。煙草について何事かを書くこの僕は男性なのだから、ごく普通の男性喫煙者の立場から見解を述べておくのも悪くはなかろう。
一般論としては、女の子が煙草を吸うなんてみっともないと考えられているようだが、僕はその説に猛反対する。紫煙をくゆらす女性の儚げな眼差し、煙を吸引するたびにふくらむ妖艶な鎖骨、ため息混じりに吐き出す熱い煙に、男ならすべからく欲情すべきである。それを指してみっともないと嘲るなど、今僕はそいつらの舌を引っこ抜きたい気持ちで一杯になっている。
紫煙というのは、見えざる業を可視化する。しかし男の業なんざたかが知れている。金と権力と性欲に翻弄され、できもしない理想を掲げ、やがて絵に書いた餅を喉に詰まらせて窒息する。だからせめてもの煙草。せいぜいそんなものだろう。
女性の業というのは、男の僕から見ると物凄まじい。それは呪いと遜色ない。常に何者かに主導権を握られ、或いはすすんで明け渡し、身も心も愛する者に与えてしまいたいと思う強烈な本能。抗いがたい衝動に、それでも真っ向から挑んでゆかねばならぬ苦悩。金や権力さえ与えておけばそれなりに喜んでいる男とは真面目さが違う。力強く根を張って生きている女性の人生とはまさに生ける芸術である。
物憂げに紫煙をくゆらす彼女たちの周りには、何か密度の高い空気が立ち込めている。ちょっとするとそれは隔壁のように思えて近付き難くもあるが、その空気が人肌にじんわり温められていることを悟ると、男としては劣情を煽られないわけにはいかない。ライターが不良品でなかなか煙草に火を点けられないでいる女性なんかを見ると、何も言わずに隣から火を差し出してみたくなる。当然そんなクソ度胸は持ち合わせていないが、しかし、遂行できないまでも、それが男の仕事ではないだろうか。少なくとも僕はそう考えている。
「煙草を吸う女はきらいだ」などとドヤ顔で宣言し、自身の潔癖性を示さんとするカス男には、さしあたってチンポに根性焼きしてやるのが手っ取り早いだろう。包茎手術を受ける立派な根拠が出来て、むしろ感謝されるかもしれない。

— — —

さて煙草について長々と書いてきた。つまるところ僕は煙草が大好きである。吸っても何も良いことが無いのは承知しているし、寿命を縮めるのも承知している。でも僕は、無駄に終始することを公的に容認してくれる煙草というのが好きだし、長生きなんてまっぴらだから、余命をもりもり削ってくれる煙草には感謝をしている。
時々、清潔きわまる病室のベッドで、いろいろに点滅するハイテク機器に囲まれながら呼吸器を付け、苦しそうに息をあえがせている自分を想像してみることがある。臨終としては最高のシチュエーションである。情けなく、みじめに、力なく、そうして静かに死んでいく。真っ黒けの肺を愛しく思いながら、最期は自分が火を点けられる。今度は僕が紫煙となって、火葬場の煙突から立ち昇る。

では、喫煙者諸君。各々煙草に火を点けて、乾杯。いや、乾煙。