音楽って音楽だ

秋の夜長も暇なんで、こういう題を付けてみてノープランで何か書いてみる。
今の世、こんなにモロな文章をインターネットに解き放てば、「サムい」「クサい」「残高少なそう」「車の走行距離12万キロ超えてそう」「どうでもいいところにばっかこだわってそう」「暇なときに前歯を舌でなぞってそう」「足短そう」とか、方々から顰蹙を買うこと間違いなしだけれど、そもそもこの日記を読んでる人なんてそうそう居ないはずだし、居たとすればそれはそれでありがたいけれど、なかなかのモノ好き、というわけで、後ろめたいことは何もない。それに、人から後ろ指さされて生きるのにはもうほとんど慣れたし、慣れてみればそれほど悪いもんでもない。

さて、音楽とはなんぞや。それは、音楽である。もう少し言うと、人間の発露する”それ”が、必然的に音楽の形態をとること。これが、僕の考える音楽である。
手近なところから引っ張ってくるなら、

こんなところか。モロに趣味が出たけれど。でも趣味の範囲だけでモノを語ることが許されないぐらい、今の世は窮屈に作られてはいないはずだ。それに音楽のジャンルっていうのはあくまでも便宜的なものであって、「よし!ヒップホップをやろう!」とか、「バラード一本でいこう!」みたいなアーティストって、本当はそんなに多くないんじゃないのか。知らんけど。

group_inouとuri gagarnに共通するのは、漠然としたイメージを音楽という枠で囲って形にしている、という点にある。歌詞なんかを聞いてみても意味不明で、とても何かを意図しているようには思えない。事実、ユーリとイノウの両ボーカルを務める佐藤くんもインタビュー内でそう語っている。

何年やってるのって聞かれても答えられる
あーだこーだ言われて今をやり通す
何年やってるのって言われても答えられる
あーだこーだ言われて今をやり通す
答えられずに言える

– uri gagarn “Maron”

光で気付いた 蜘蛛の巣
きらきらと輝く 風鈴 草履
サプライズをちょうだい
浮かんでいたいから
サプライズをちょうだい
浮かんでいたいよね

– group_inou “BLUE”

何かを意図することへの執拗なまでのアンチテーゼを感じないではいられない。触れそうで触れない、あえて本質の周りをウロウロすることで、外堀を埋める形で本質を浮き立たせる、実に美しい手法だと僕は思う。「好き!」って直に言うのも良いけれど、「きらいじゃないの、きらいじゃないの」って、恥ずかしそうに言われる方がよりグッとくる。まあ、そのへんは好悪に依るところがでかいだろうけど、僕は是非とも後者をむしゃぶりたい。
MaronにしろBLUEにしろ、この表現を代替できる手段は存在しない。強いて言うなら、絵とか写真とか、そういう視覚的なものには近いかもしれない。無理やり言葉にするとしたら、絵を歌った、写真を歌った、そういう風に言うこともできると思う。耳で聞いたものが、形而上で変換されて、視覚情報として映えてくる。本当に美しいことだと僕は思う。

僕はいわゆる”売れ線”のJ-POPは全くと言っていいほど聞かない。意図的にそうしている。「あっいいじゃん」と思っても、無理やり聞かないようにしている。なぜか。売れ線の曲はすぐに飽きがくるからだ。
初見から何の違和感もなく、耳にスッと入ってくる音楽はまず疑うようにしている。音楽技術のことに関してはまったくをもってど素人の僕だが、たぶんそういう耳障りの良い曲は、なんかそういう万人にウケやすい旋律、カレーとかラーメンみたいなそういう分かり易いものが開発されていて、それに則っているに過ぎんのだろう、と考えている。根拠は無い。根拠が無いからと言って糾弾されるのはお門違いだと思っているし、そもそも音楽をどう聞こうが僕の勝手だ。僕はずっと好悪の話をしている。スタンスの話をしている。
具体的なアーティスト名を挙げるのは面倒くさいので省くが、ともかく売れ線のJ-POPが耳に入った時の「あっカレーだ」みたいな感覚は、中学生ぐらいの頃からずっとあった。そしてそれを事も無げに迎合して、違うのが流行り始めたらすぐそっちに乗っかる同級生を、なんとなく不気味に思っていた。
てな経歴と性質があるので、「メジャーな音楽を知る→興味が湧いてディグる→インディーズとかを知っていく」、という王道の流れを汲んでいない。いきなり当てずっぽうでインディーズや自主レーベルものを聞きまくり、気に入ったアーティストをしつこくしつこくディグっていって、紙に墨汁が滲むぐらいのスピードでゆっくりと趣味を広げていく、みたいなやり方しかできない。好悪も激しい。

ユーリとイノウに話を戻そう。「もしかして、音楽って音楽なんじゃないか」という啓示にあたったのは、何の気なしにイノウの曲をエスティマのBluetoothから流し聞きしていたときだ。

馬鹿クソかっこいいのはもちろんのこと、なんだろうこの抒情、寂寥、焦燥、詩情。これなんだろう、これほんとなんなんだろう、とグルグルグルグル考えて、ハッと一閃、「いやこれはまったくもって音楽だ」という結論に至った。彼らはこんな素っ頓狂で、意味不明で、そのくせ抒情まみれのこんな曲で、一体何を表現したいのか?どんな意図があるのか?のアンサーが「音楽」であることに気づいたとき、僕ははじめて「音楽」を正しく理解できた気がした。それまでの僕は耳障りの良さだけで音楽を聴いていたのだと思い知らされた。

 

最後にこの曲を紹介して終わろうと思う。この記事をここまで読んだ人があるなら、文章を読むよりまずは一回聞いてほしい。
「ウケ狙いか?」という感想が飛んできそうだが、たぶんこれは大まじめにやっている。確かに面白い部分も多々あるけれど、あくまでそれは副産物であって、はじめからそれを狙ったわけではない。
そういう例は他にもあって、たとえばアジカンの「リライト」のMV。間奏に入るときの「ハッ!」がリフレインして、「ワゥワゥワゥワゥ…」みたいな音になり、次いでメンバーがワイヤーで宙に浮いていく描写があるが、僕と友達の数人はカラオケであれを見て爆笑した。でもアジカンはぜったいあそこでウケを狙ったわけではない。ノリアキのこれだって同じことだ。アジカンで爆笑する僕たちの感性に問題があるように、ノリアキを指して笑う我々の感性をこそ、まずは疑ってみるべきなのである。

この曲のすごいところは、装飾を一切施していないところにある。言うなれば、「やれることをやった」「やれることしかやらなかった」であり、「出来ないことは出来ない」と言ってのける素直さである。
MVの中途に差しはさまれる、2000年代初頭に小学校の授業で使われてたパワーポイントみてえな死ぬほどダサいフォントも、一つの表現として立派に機能している。カッコつけるのはノリアキにとって「リアル」ではない。それは単なる嘘つき、背伸び、真の自分から遠ざかる行為であって、常に生身でリスナーにブチ当たらなければならない、というのが、ノリアキの思想だろう。それを体現するかのように、MVでは美女も高級車も夜の都会も物憂げなアルコールも何も登場しない。雑木林で騒ぐノリアキ、埠頭で踊るノリアキ、サイゼで恥ずかしそうにビートを刻むノリアキ。たったそれだけである。カッコよくあろうとせず、ただただ生身を押し出してくるこの圧巻の迫力は、どこかユーリやイノウを彷彿とさせられる。
このunstoppableという面妖な楽曲に込められた並々ならぬ思想は本一冊に匹敵する。ユーリやイノウが写真を歌のなら、ノリアキはそのまま自分の生を歌ったのだろうと思う。まっこと、音楽というのは奥が深い。

グダグダと書いてきたが、僕はあらゆる音楽を否定しない。それはすべて個々人の好悪によって決定されるべきで、故にどんなものでも肯定されて然るべきだと思う。この世に否定される芸術のあろうはずがない。そこにはただクセがあるだけだ。好む人は必ずいる。少なくとも僕はそう信じている。