生きること、死ぬことについて

「生きるとは何ですか?」「死ぬとは何ですか?」
そう聞かれたら、僕は黙って食器棚まで歩いていき、2年ほど前USJで買ったイニシャル入りのグラスを取り出して、刻まれた文字を一通り眺めるだろう。
それから製氷した丸い大きな氷を一つ、冷蔵庫から取り出して、グラスの底にすとんと落とす。
棚から近所のスーパーで買ってきた税込1,000円くらいの安物のスコッチを取り出し、それとなく残量を確認し、重さをはかってから、とくとくとグラスに注ぐ。
琥珀色の液体がグラスに満ちるのを見届けてから、それをわざとらしく目線の高さまで持って行って雰囲気を出し、思いついたように一口すする。
目を閉じ小さくため息をついてから煙草に火をつけ、濃くて重たい煙をゆっくりと吐き出しながら、わざとらしく薄く伸びた顎鬚をさすったりなんかして、もったいぶりながら僕はこう言う。
「さしあたって…」
そんなところから話し始めてみよう。

生きる意味とは何か

これはおそらく考えない人はいないんじゃないかと思えるほど、日々に蔓延している疑問の一つ。
僕とて例外ではない。毎日とは言わないまでも、週一くらいでそのことを考える。寒々とした街を眺めながら。赤信号を待ちながら。眼鏡を拭きながら。
人々は日々それを追い求め、手に入るかな、手に入らないかな、と悶々しながら暮らしている。林立するビルも、使い古された信号機も、鉄橋も、人がこの問いに――答えではなくあくまでも問いに――より近づいてく過程で出来た副産物のように思える。

生きる意味。これはどこまでいっても暫定的な答えしか出ないような気がしている。ということは、人間が生きる絶対的な意味というのはそもそも無いんじゃないだろうか。
少なくとも僕は現時点ではそのように考えている。「これがあって人が生きる」という共通のものは無い。それは個々の中にだけ存在すべきものだし、また他人と共有しあえるものであってはいけない。
僕は無神論者だけど、原罪についてはおおむね同意している。つまり、人間とは生まれつきの罪人であると。
何をもってして罪人とするか、それは人間だけが持つ理性に所以すると僕は思う。これはとても便利なものだけど、でもあるが故に人を混沌に導く。厄介なもの。
僕は生きることについて考えるとき、必ず我が家の愛犬を思い出す。
昔国語の教科書か何かで読んだ。「人間とは唯一愚行の冒せる動物である」と。なかなかハッとさせられる。たしかにワンワンに愚行は冒せない。そもそもそういう発想が無い。
ワンワン、ひいては動物たちというのは、生きることそれそのものが生きる意味である。明日明後日と生き延び、子孫を繁栄させる。それはつまり、命の営みそのものだと僕は思う。
人間は原初、「火」という理性を獲得し、それによってあらゆるものを発展させ、またあらゆるものを焼き尽くしてきた。だからこそ、鋭い牙も硬い毛も持たない人間がここまで生きながらえてきたのだろう。

ちょっと脱線した。現代に於ける生きる意味とは何だろう。
印象としては、だいぶ多様化してきて、もはやよくわからなくなってきている。とにかく今の世はシステマチックにできていて、どうすればいいかというのがある程度示唆されている。
生まれたら小学校に行きなさい。それが済んだら中学校。そして高校、大学と進み、その間に将来就きたい職を決めておきなさい。職に就いたら一生懸命働いて、いい人を見つけて結婚し、子供をもうけてから死になさい。
これがおおよその人の一生。あくまでも僕の考える人の一生。
だいぶ無味乾燥に思えるけど、それは極限まで細部を省いたからで、本当は人生というのはもっと素敵なことやクソみたいなことに満ちている。人はそれらに揉まれながら生きていく。
自分の10代の頃を思い出してみる。あの頃は生きる意味がつかめず、脳みそに爪楊枝でも刺しながら生きてるような感覚だった。
それに僕はなんといっても平凡だった。語って楽しい話もなければ、マイノリティを意識できる不幸な身の上もなかった。ただただ平凡。与えられ、その上を歩くだけの生活。生きる意味を見失った。
今は愛する奥さんがおり、死ぬほど可愛い愛犬も居る。大切にしたいと思える友人も居る。けれども僕は、別に彼ら彼女らのために生きているとは思わない。ただ、自分が死んでそれらを失ってしまいたくないと思っているだけだ。
では人が生きる意味というのは、その人生に何らかの意味を付け足していくということだろうか。いや、これは僕の冴えない直感が否定している。冴えなくても僕はこの直感が気に入っているからこれに従うことにする。
失いたくないものが増えるほど、生きる意味が増してくる?そんなのはナンセンスだ。ださい。僕はそう思う。命を何かによりかけておいて、それが倒れたら生きる意味を失うだなんて、なんとも滑稽な話じゃありませんか。

生きる意味は誰かから与えられるものではないと思う。かといって拾うものでも、見つけるものでもない。
きっと、生きる意味というのは「気付くもの」。様々な角度から、様々なアプローチによって見出していくもの。だから求めても手に入りはしない。
「ベストな死に方が見つからないのでとりあえず生きてる」というスタンスの人が居ると聞いたこともある。つまり人生とはそういうもの。
僕が目下生きる意味としているのは、「この世が好きだから」。朝焼けとか、朝露に濡れたガードレールとか、マフラーで口元を隠して歩く女子高生とか、くたびれた顔して立ち読みしてる冴えないおっさんとか、そういうものを全部内包してるこの世が好きだし、だからこそもうちょっと生きたいなと思う。
生を肯定する論理などありはしない。ワンワンを見よ。彼らは何に肯定されているというのか。

死ぬことは美しいことじゃない

次は死について。
僕は死ぬことはさほど怖くない。いやもちろん、ゆっくりなぶり殺されるのは怖い。ただ、ある日突然避けようのない事実として死がやってきても、それはそれですんなり受け容れる準備はできているという意味だ。
ちょうど一年ほど前、奥さんの叔父が自殺した。理由は釈然としないが、どうやら借金に苦しんでいたらしい。
背筋がまっすぐ伸びていて、背が高く、胸板は鉄板のように厚くてスタイルは抜群、顔だって文句なしの男前。そんな人が、工場で首を吊って死んだ。
僕はお通夜にも出させてもらった。首には生々しいワイヤーの痕がくっきり残り、顔は真っ白で、不気味なほど安らかな表情だった。その肌は触れずとも氷のように冷たいのが分かったし、今にも起きあがりそうな迫力と、もう二度と起き上がらないのだいう強固な現実がその身に携わっていた。
火葬が終わり、骨だけになった叔父を見たとき、僕はそれを切ないことだと思った。40数年、酒も煙草もほとんどやらず、健康そのもので生きてきた叔父の骨は真っ白で密度があって、鉄より硬くて重そうに見えた。それが本当に本当に切なかった。
死にたがりの人間は、死そのものに自分のアイデンティティを置いておこうとする節がある。つまり、死は美しく甘美なもので、いかにつまらん自分であろうと、死の瞬間は美しく儚く散ることができるのだと。
でも僕はそれを真っ向から否定したい。死は生の一部だから、人の営みの中でももっとも生々しいことの一つだと考えている。死は安らぎではない。
多くの人は、それを危なっかしい薬品でも扱うかのように手の内でもてあそんでいる。死というものがまだ自分の中にあり、それを手に取れる状態だからこそ、死を甘美なものだと考えられるのだろう。
僕は自分の祖父の死も経験した。急性白血病で、最後にはモルヒネを打って死んでいった。近場に死にたいという人が居て、もしその人に祖父の病気を移せるんであれば、僕は喜んでそうしただろう。見よ、この浅ましさ。生々しさ。死は本当に美しいものですか?
自分の心臓が鼓動して血液が体中を巡り、肺が膨らみしぼみ、目はこの世のあらゆるものを捉えている。僕はそのほうがよほど美しいと思う。死して晒す屍に与えられるのは、一過性の憐れみだけだ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA