人間、その矜持について

はじめに断っておくが、僕は自分の尊厳のために怒れる人間ではない。
どういうことかというと、無条件に人にばかにされた時、「なんだよ!」と言える人間ではないということだ。
幼い頃から、両親を怒らせてはいけないという観念に捉われ、自己嫌悪の末に自分自身の魂から離れ、物事を俯瞰で見るような癖がついてしまった。
そうして僕は、自分自身の中に卑屈な精神を育て、25歳を迎えた今すっかり熟してしまった。

しかし、今日仕事中に気付いたことがある。
「もしかして、人間の矜持というのは、生まれつきあるのではないだろうか」と。
一般常識では、人間の持つ「誇り」というのは生きていく過程で自らの力によって獲得していくものだという認識になっていると思う。
真面目に勉強して、きちんと義務教育を終え、高校に入り、大学を出て、立派な大人として自立していく。
誰かにないがしろにされて悲しくても、耐え抜き生き抜いて、そうして生きた人生そのものがその人自身の「誇り」となる。
裏を返せば、こうした裏打ちによる「誇り」以外の「誇り」は偽物であるというのが世間一般の常識だ。そういうものを心に持っている人には「傲慢」「無知」「ばか」のレッテルが貼られる。

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僕は長年、「自己責任論」に捕らわれてきた。自らの身に降りかかるすべての厄介ごと、および幸福は、すべて自分の選択によるものであると。
どれだけ悔しい思いをしようとも、それは自分自身の選択の連続が招いた結果であり、受け容れるより他ない。
だからこそ尋常の努力を怠った者は糾弾される運命にあり、それすらも受け容れなければならないと。

この考えが改まった(というより、別の考えが確立した)のは、今思えば会社の後輩が見せてきたある一枚の写真だった。
それは、10代の女の子が自傷行為をしている生々しい写真だった。
僕自身、別に自傷行為そのものが汚らわしいとか、下品であるとか、そういう風には思わない。ただ、写真と共に添えてあった一文が気になった。そこには「病みぴべいび」と書かれていた。
おそらくそれは、彼女なりの自己表現の仕方であったろうと思う。寂しくてたまらなくて、でもそれは決して肉感だけでは埋められない類のものだと知っている。だからこそ彼女は手首を切り刻む。自分自身のため。自分自身がここにいると、強く強くアピールするため。
今の世の中は、どこへいっても「規定」されている。驚くべきことだが、自傷行為をSNSにアップするという行為も、規定されている。「メンヘラ」の一言で片付く。
規定された概念の中に自らの存在を置きたかったのか、それとも単に寂しくてたまらないのかは分からないが、さて、これは「彼女自身」の罪だろうか?僕は違うと思う。
誰が好き好んで、手首を掻き切るなんてするだろう。聞いたところによると、その子は眠剤とアルコールを併用して「酔う」のが常習化しているらしい。誰が好き好んでそんなことをする?
それは、本当に「彼女自身の選択」だろうか?
寂しくてたまらないのも、苦しくてたまらないのも、本当に彼女自身の選択が招いた結果と言い切れるだろうか?

思うに、やはり人間には「業」というものがあると思う。こうした破滅的な生活を送る裏には、荒れた家庭環境等なんらかの問題があることが常である。
生まれつき親から関心を持たれず、愛情も注がれず、他人とどう接して良いかが分からないまま成人し、幸か不幸か容姿端麗ゆえに男たちが群がってきて、もう自分の意志なんかは分厚い雲の内に隠されてしまう。そういう人を、僕はそれなりに見てきた。
厄介なのは、どれだけクソな親を持っていても、それを克服し、乗り越えた人が居るという紛れもない事実だ。それがいつでも生活弱者を苦しめる。曰く、「同じ境遇、同じ環境の人に出来て、なぜおまえにできないのか?」
そして弱者たちは「誇り」を持てず、尊厳を奪われ(あるいは捨て去り)、ただ泥濘のような先の見えない人生へと足を運んでいく。
何が自分をそうさせるのかは、ずっと分からない。説明できるものではない。けれども、心のどこかには「仕方ない」という気持ちが潜んでいる。手首を切り、流れる血を見るとき、ようやく「仕方ない」と納得することが出来る。その不健康な安心感が、彼女には必要だったんだと思う。

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僕は初めに「人間は生まれつき誇りを持っている」と言った。ではそれはどんな誇りか。
「自分として生きていること、自分として生活していること」への誇りである。
そんなばかな、そんな甘いものじゃない、大人たちは口を揃えてそう言うだろう。なぜなら、そんなことを認めてしまったら、自分の「誇り」が音を立てて崩れ落ちそうな気配がするからだ。
しかし考えてみれば、彼らは逆説的な誇りしか持っていない。学び、働いて稼ぎ、子を産み育て、やがて死ぬ。この営みは「絶対的な誇り」ではなく、それができない人たちが居ることを想定した誇りである。つまり、「堕落」を強く意識しそこから遠ざかることによってのみ磨かれる「誇り」である。
そうではない。人間は「自分であること自身」に誇りを持っても良いと僕は思う。
ワンワンを例に挙げると分かりやすい。ワンワンは「犬であること」のみに誇りを持っている。それは気高く、絶対的で、何者にも傷つけられはしない。もともと弱肉強食が当たり前の大自然を祖先に持つワンワンは、何頭子供を産んだかとか、獲物を何頭仕留めたかとか、そんなことは何の誇りにもならないことを知っている。

人間は、ただ自分だけのためにこう言う。「あいつは仕事ができない、あいつは不細工だ、あいつは淫乱だ、あいつは頭が悪い」。
こんなことが平然と言えるのは、その人が「自分自身として生きることに対する誇り」を持っていない何よりの証拠だと思う。誇りというのは、人並みには仕事ができて、人並みに清純な恋愛をして、人並みに死んでいくことでしか手に入らないと考えているからだと思う。

僕の尊敬する先輩のmzfkさんはこう言っていた。「おれは、ナメられるのが一番きらいだ」と。
これは、「自分として生きることに誇りを持っている人」の台詞である。考えてみれば、誰も他人をナメて良い理由なんて無いし、第一他人をナメてかかるのは十中八九自分のためでしかない。彼はそれを理屈ではなくもっと深いところで理解している。
ナメられて怒る、というのは、自分の尊厳を傷つけられまいとして起きる防御反応だ。とても野生っぽく、だからこそとても純粋で気高い。

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「お天道様が見ている」という言葉がある。いつ何時でも、自分の行いはすべて天上に召します神様によって見守られているのだから、粗相をしてはいけないという意味だ。
僕はこの「お天道様」というのは、まさに「自分として生きることの誇り」そのものではないかと思う。
たとえば何か魔が差した時、自分の中では理性と魂がけんかする。「盗め、1万円得するぞ」という理性と、「自分は盗人(理由もなく人の尊厳を侵害する人)なんかではない」という魂だ。
この時、ほとんどの人は理性だけを働かせて、結局は盗みをやめる。それは、「ばれたらどうする」という、理性による選択を前提とした理性による決定だ。
でも本当は、迷わず魂の方に従うべきである。自分として生きることに誇りを持っているのなら、わざわざ自分で自分の尊厳を傷付けるようなばかな真似はしない。これを裏付けるように、mzfkさんは「ありとあらゆる悪いことをしたが、盗みだけは一貫してきらいだ」と言っていた。当たり前だ。自分の生き方に誇りを持つ人が、盗みなんてやるわけがない(mzfkさんのした「悪いこと」に関しては伏せるが、しかしそこには誇りを前提とした一貫性があるということだけを伝えておく)。

なぜ他人を傷つけてはいけないのか?それは、自分の尊厳をダイレクトに傷つける行為だからだ。気高い誇りを、自ら汚してしまう行為だからいけないのだ。そして人間は、すべての動物の中で、唯一自らの手によって誇りを放棄することのできる生き物だ。
僕はそれをとても美しく思う。理性のせいで潔白には保っておけない魂を、大事に自分の中に抱え込み、人は生きる。この美しい営みに、誇りを持ってなぜ悪い?

生きよう。

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