「ェ」の魔力

僕は何かにつけ、わざと汚い言葉遣いをする。
無論、男というのはよほど上品に育たない限りは、うんこちんこを連呼するものであるが、それを弁えたうえで放つうんこちんこは、何ともいえない趣に満ちている。

「ェ」の魔力というものがある。分かりやすく言うと、「ぇ」。小さい「え」だ。
これをあらゆる単語のケツにブチ込むことで、どんな高尚なご高説もたちまち音を立てて下界に墜落し、より親しみやすいものとなる。
たとえば、「でっかいおっぱい」と聞くと、ふっくらしてやわらかな女性の胸を想像するだろう。マシュマロのように柔らかく、シルクのようにきめ細やかで、照り返しを受けて光る夏の砂浜のように真っ白で輝いている。
そこはかとない幼児性が垣間見え、なんとも愛らしい。世の女性陣は是非ともこうした可愛らしい言葉遣いを心がけてほしい。
しかしこれを、「デケェ乳」と言うと、どうだろう。言葉が向けられる対象は同じ「おっぱい」でも、印象がまるで違う。それどころか、「デケェ」に引っ張られて、「おっぱい」が「乳」にさえなるのだ。
可愛らしい幼児性が一変、場末のスナック臭漂う下品な単語に成り代わる。歯抜けのジジィどもが柿の種で一杯やりながら、ゲラゲラ笑う声さえ聞こえる。僕はこれこそが趣だと思う。

もう一つ例を挙げよう。「やばい」だ。これは、これ自体が下品気味ではあるけれど、「ェ」の魔力にそんなものは関係ない。
これが「ヤベェ」になると、これを発した人が、いかにも切羽詰まった状況に置かれているのが想像できる。より可視化すると、「やばい」は消費者金融に10万円ほどの借金だが、「ヤベェ」は闇金に50万円ほどの借金がある感じだ。意味不明な例で申し訳ない。

さらに、「ェ」の魔力は続く。人間というのは、何かにつけ極端なほうへ向かかうようにできている。近年、感受性はなおざりにされ、理性の暴走による冷たい正論が我が物顔で街の隅々を闊歩するようになったし、ある国では核兵器という世にも恐ろしい殺戮のためだけの爆弾が用意されているという話だ。
かようにして、人間というのは放っておくと極端なほうへ傾きたがる。だから、「ェ」の魔力に取りつかれた言葉もまた、人間が使役しうる限り、極端なほうへと傾こうとするのである。
どういうことかというと、「ェ」だけでは足らなくなってくる。「ヤベェ」「スゲェ」「デケェ」だけでは、魂がむずむずしてたまらない。だから人は、より下品な方へ持って行こうと、今度は接頭語の工夫に骨を折る。
「やばい」は「ヤベェ」となり、「クソヤベェ」となる。「すごい」は「スゲェ」となり、「鬼スゲェ」となる。
「でかい」は「デケェ」になり、やっぱり「クソデケェ」になる。これ以上ない下品で低俗な言い回しである。しかしこれこそが、上品でありたいと願う人間の営みの隙間から漏れ出た、残滓とも取れる趣と言えないだろうか。言えないかもしれない。

僕は女性の書く文章が好きなんだけど、実をいうと「ェ」の魔力は女性たちをも虜にしている。僕が最近見たのは「どちゃクソめんどくせぇ」という単語で、これを見たときの僕の脳髄に走った電撃たるや、市販のテスターでは到底測定できそうもないものである。よくやった、よくぞ言った、心の中でそう賛辞を送った。それでこそ、人間社会を生きる人間である。クソみてぇな社会に属していながら、「とても面倒だ」なんて言葉は、出るわけがない。「どちゃクソめんどくせぇ」、それで十分だ。それ以上に何がある。

そういうわけで、こんなクソつまらない記事をここまで読んでしまったあなたも、今日から「ェ」に着目してはいかがか。「おいしい!」という代わりに「美味ェ!」と言い、「めんどくさい」と言う代わりに、「クソダリィ」と言うのだ。なんだか、心が躍るような気がしないだろうか。

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