「死にたがり」についての考察

ことネットの世界には、死にたがりの人間が大勢居る。そのほとんどが思春期を終えたばかりの男か、女。40代で死にたがっている人は見たことがないし、第1そんな人が居たら死に「たがる」というよりはとっとと自分に引導を渡しているだろうと思う。踏みとどまらせるものが希薄な上、苦悩もまた本格的であろうから。

はじめにことわっておくが、僕は決して死にたがりの人間を批判するのではない。これから続く文章は、あくまでも考察、その心理の解明を目的とするのであって、啓蒙でも、ましてや教化でもない。

「死にたい」には2つの意味がある

彼らの言う「死にたい」を、額面通りに受け取ってはいけない。彼らの言う「死にたい」とは、「自分とは違う何者かになりたい」という意味である。
その証拠として、彼らは常に他者を羨んでいる。たとえ自分より容姿が劣っていようとも、頭が悪かろうと、そんなことは関係ない。死にたがりからすれば「自分ではないこと」がそもそも羨望の対象なのである。

ではなぜ「自分ではない何者か」になりたがるのか?
彼らは諸々の事情から、自分自身を認め、受け容れることができない。自分を認めないための判断材料をたくさん心に抱えて、毎日それを並べて検証している。自分を罪人のように考え、卑屈の限りを尽くすことで、堕落が許されるからである。
自分を責め続ける生活は他者からすれば苦しそうに見えるが、実のところ死にたがりはただ、自分自身から逃げる理由を自分でこしらえているに過ぎない。
何か悪いことをしでかしてしまった場合、普通の人であればその罪を認め反省するが、死にたがりは罪そのものを認めず、「自分は悪い人間だ、だから罪を犯したのだ」とひたすら思い込むことでその責務から逃れようとする。贖罪を自分一人の中で完結させてしまうのである。
そうしたことが習慣化すると、特に何もしていないにも関わらず常に劣等感に苛まれるようになる。何をやっても、自分はかつて罪を犯した自分と地続きに存在しているに過ぎないのだから、それだったら別の何者かになりたい、という思考に落ち着くのである。そして口から出る言葉が「死にたい」。

彼らが求めているものは、罪を赦し自分の全存在を受け容れてくれる他人である。そういった他人に心を寄りかけ、依存し、うっとりしたいと考えている。
しかしはっきり断言するが、この世のどこを探しても、そんな他人は絶対に存在しない。あえて言うのであれば、それが可能なのは紛れもない「自分自身」だけである。
自分自身だけが、自分の罪を赦し、その全存在を認め肯定することができる。死にたがりの大勢は、この事実を知ってか知らずか目を背けている。罪に向き合ったが最後、本当に命を絶つしかないと考えているからである。

では罪とは何か?幾分抽象的な表現になってきたので、このあたりで具体的なものを挙げておきたい。
それはたとえば、何でも良い。遅刻した、人に怒られた、やるべきことをやらなかった、モテない、毎日がつまらない、etc…
こういうクソどうでもいいことすべてが、死にたがりにとっては罪なのである。こうしたもので構成された「生活」が、彼らにとっての罪なのである。
そして、そうした生活のすべてが自分の人格に直に影響を及ぼしていると考え、「こんな生活をしている自分はクズだ」という思考に陥る。
これが高じると、死にたがりはむしろ余計に罪を量産しようと心がける。それも、自分の中だけで完結するものを。
それはリストカットであったり、未成年者の飲酒・喫煙であったりする。彼らは自分を責め苛むことによってしか、生きることができないからである。

彼らの言う「死にたい」のもう一つの意味は、「赦されたい」である。死ぬことによってのみ、罪が赦される、終わらせることができると考えている。
死というのは、当たり前だが生きていてはじめて実感できるものである。彼らは生きて、死がまだ自分の中にあることに安心感を感じる。死はすべての救いであり、終焉であり、無である。
不思議なことに、彼らは生きることではなく、死ぬことによって自分と向き合おうとする。死を甘美な罰と考え、常にそれを夢想する。
だが、彼らは決して苦しむ死に方を選びはしない。できれば眠るように安らかに死にたいと考えている。真に自分を罰し、その結果として死にたいのであれば切腹あたりが妥当だが、彼らは絶対にそんな苦痛を伴う死に方を良しとはしない。身体に損壊の無いきれいな状態で、ふっと死にたいと考えているのだ。

死にたがりの行く末

程度の差こそあれ、「死にたがり」は多くの人が一度は通過するものである。この段階で人は自分の内面に潜り込み、より深く自分というものを知る。自分自身を認めることを知り、大人になる。
ただ、多感な時期にこれが起きるというのは何とも厄介で、死にたがりになった人間は否応なく右往左往を強いられる。
よくあるのが、この状態を打開しようとマッチングアプリ等を用いて他人の肉感の中に自身の生活を埋め、とにかくその場凌ぎで淋しさを紛らわせようとする方法である。
「類は友を呼ぶ」という紛うことなき真理がある。ある一人の死にたがりが肉感を求めて出会ったもう一人は、同じく肉感のみを求めてさまよう一人の死にたがりである。こういう不健康な生活に身を投じていると、いつしかそれが習慣になり、煙草のようにセックスそのものに依存するようになる。
一度こうなってしまうと、自分の意志で抜け出すのは非常に困難である。どこかの時点でしっかりと気付き、ピリオドを打たなければ、何をしてもどこへ行っても虚ろな人生が待っている。そうなってしまったら、終わりである。

治療法

死にたがりは治すことができる。
方法はただ一つ、自分自身のすべてを受け容れることである。
これは、あくまでも「受け容れる」のみであって、「肯定」ではない。自分の行いや生活を肯定する必要はどこにもない。ただ自分が生きて活動している、まさしく「生活」を認め、受け容れることで、死にたがりは治すことができる。
生活を認めていくと、次第に自分の「魂」が見えてくる。これは、自分自身の核となるもの、すべてを取り去って考えたときに、それでも残るものである。(自分自身に対しても)嘘偽りなく、本当の本当に心の底から出る欲求、それが「魂」である。

他者から認められる必要は全く無い。だいたい、他者というのは往々にして他人に100点満点を課してくるものである。他人などをアテにしていたら、死にたがりは一生治らない。日々使い捨ての肉感、消費する価値観、そうした諸々が跋扈する即物的な世界に身を置きたいというのであれば、それは好きにすれば良いが、上でも述べた通り、その先に待っているのは虚ろな人生だけである。そしてそれを選択したのはまさしく自分自身なのだから、今度こそは本当に命を失うかもしれない。

まとめ

僕は人間が好きである。右往左往し、慌てふためき、よく泣き、よく笑う人間を心の底から愛している。
この一連の思想は、端的に言って、人間賛歌である。

以上。

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