Tumblr論

たとえばTwitterやInstagramは、用途がシンプルである。140字以内の文章を投稿する、何か写真を投稿する、と直感的に理解できるように作られている。流行するのも当然である。
しかし、Tumblrというのはなんだかよく分からない。無制限テキスト、画像、動画、音声、何でも受け容れる。これはSNSというよりも、ブログである。

SNSには「文化」がある。無論、文化はユーザーが作り上げていくものだから、意図しない方向に向かうこともしばしばである。

たとえばTwitterの文化は「炎上」。その時Twitterは、指先一つで会ったこともない他人を攻撃できる優れたツールとして活用される。満たされるのは「正義感」。
Instagramの文化は「映え」。過度か適度かはとりあえず置いといて、撮った写真を加工して見栄えを良くして投稿する。見栄えが良ければ良いほどたくさんリアクションがもらえる。満たされるのは「自己顕示欲」。
Tumblrの文化は「生活」。Tumblrを利用する人は、文章や画像、動画などをもって、自身の生活を克明に記す。だから、他のSNSよりも「つながり」が薄く、アカウント1つ1つの濃度が他のSNSに比べて段違いに濃い。満たされるものは何もない。

ここから見えてくるのは、SNSというのは(趣味利用の範囲に限って言えば)人間の生活を細分化し、切り取るものであるということだ。SNSに何かを投稿する時、人は「つぶやく自分」「着飾る自分」を演じる。
しかし、Tumblrではそうした欺瞞は通用しない。ありのままの自分が、生きた自分の生活がまさにそこに記されているのであり、それは自分以上でも以下でもない。
TwitterやInstagramは簡単に人に教えるが、Tumblrのアカウントはそう簡単に明かしたくないという人は大勢いる。当然だろう。
僕がTumblrを愛すのは、紛れもなく生きた人間がそこに居るからである。投稿の内容如何に関わらず、Tumblrには寝息にも似た人の息遣いが確かに感じられる。

文化衰退の懸念

Twitterの文化は炎上であると述べたが、初期のTwitterはもっと有意義なことにのみ使われていたはずであるし、制作者もそれをはじめに意図したろうと思う。
Instagramも所謂「写真日記」的な使い方が派生して今のような文化が築き上げられたのかもしれない。
これらを明白に「衰退」と考えるのは浅はかだとは思うが、しかし、炎上目的でTwitterにかじりついたり、映え目的でお洒落なアイスとかを買って写真だけ撮って捨てたりというのは、SNS本来の使い方ではない。明らかに誤っている。
Tumblrとて例外ではない。人間の生活を映しだすという特性上、投稿される内容はディープなものが多かったりする。自殺念慮に巡り合うこともしばしばだし、不貞行為なんのそのである。
ある人がこうした文化と触れ合った時、本質を知ろうとしなければ、「ははぁんTumblrってのは、つまり病んだ人たちが病んだ投稿をして繋がり合うSNSなんだな」と曲解してしまう。そして停滞しっぱなしの自分の思想や生活をつらつら書き記していく。
僕がフォローする人々は皆、動いている。同じところに居ない。前進か後退かはとりあえず置いておくにしても、とにかく動いている。「自分はだめなやつだ」とか「死にたい」とかで終わっていない。僕はそこでずっと停滞している人はフォローしないし、後から判明した時はフォローを外すようにしている。露骨なようだが、これはTumblrの文化を守るための活動だと僕は考えている。

このままTumblrが病み病み系男子&女子の巣窟になってしまえば、素晴らしい文章で自身の生活を書き立てるあの人この人が去ってしまう。それは大打撃である。1アカウントの持つパワーがTwitterの比ではないTumblrにとって、質の高いアカウントの喪失は痛手である。冗談抜きで、特定の人の投稿を読むためにTumblrをやっているという人も多い。

断言しておくが、Tumblrは闇の性質を持っていこそすれ、それに甘んじて傷をなめてくれる相手を探すSNSではない。それはたぶん、Tinderとかの仕事である。以上。