強者と弱者

三島由紀夫の著書、「不道徳教育講座」で、彼は「弱い者をいじめるべし」と題して、次のような一文をしたためている。

…私がここで「弱い者」というのは、むしろ弱さをすっかり表に出して、弱さを売り物にしている人間のことです。この代表的なのが太宰治という小説家でありまして、彼は弱さを最大の財産にして、弱い青年子女の同情共感を惹き、はてはその悪影響で、「強い方がわるい」というようなまちがった劣等感まで人に与えて、そのために太宰の弟子の田中英光などという、お人よしの元オリンピック選手の巨漢は、自分が肉体的に強いのは文学的才能のないことだとカンチガイして、太宰の後を追って自殺してしまいました。これは弱者が強者をいじめ、ついに殺してしまった恐るべき実例です。

また、彼はこうも書いている。

しじゅうメソメソしている男がある。抒情詩を読んだり、自分でも下手な抒情詩を作ったり、しかもしょっちゅう失恋して、またその愚痴をほうぼうへふりまき、何となく伏目がちで、何かといえばキザなセリフを吐き、冗談を言ってもどこか陰気で、「僕はどうも気が弱くて」とすぐ同情を惹きたがり、自分をダメな人間だと思っているくせに妙な女々しいプライドをもち、悲しい映画を見ればすぐ泣き、昔の悲しい思い出話を何度もくりかえし、ヤキモチやきのくせに善意の権化みたいに振舞い、いじらしいほど世話好きで……、こういうタイプの弱い男は、一人は必ず、諸君の周辺にいるでしょう。こういう男をいじめるのこそ、人生最大の楽しみの一つです。

文豪太宰治もここまでボロクソに言われては浮かばれない。

さて、三島由紀夫の言うこれは、人間社会における「弱肉強食」を端的に表したものである。
引用した文章には三島個人の感情が入っているっぽいので論理が一方向であるが、しかし、彼は自分の筆ではっきりと「弱者が強者をいじめ、ついに殺してしまった恐るべき実例」と書いている。これはつまりどういうことかというと、人間界においては「弱者が強者になる」こともあり得るのである。
結果論的な考え方になるが、弱者に殺される強者ということは、弱者の方が一枚上手だったということである。三島由紀夫が脳筋だとすれば、さしずめ太宰は毒使いといったところか。
毒キノコなんかでもそうで、奴らはただ森に生えているクソ雑魚に過ぎないが、しかし劇毒を持つ個体もある。喰われて、喰らった相手もろとも殺す。これは、強さの持つ一側面と考えることもできないだろうか?

ではなぜ、強者は弱者に殺されるのだろうか?僕はこれを、強者もまた弱者と同じ人間に過ぎないからだと考える。
人間が唯一持っている力は、「愛」である。これはまず美しく、同時に儚く、強くもあり、脆くもある。愛ゆえに、強者は弱者に殺されるのである。
強者が弱者を愛する時、強者の敗北は確定し、立場は逆転する。弱者は愛の力を持って強者を籠絡し、強者は愛の力を持って弱者に負ける。
ここに一人、筋骨隆々のたくましい男がおり、彼はまた愛する妻と子をその身一つで養う精神力と経済力をも兼ね備えているとする。
彼は肉体的にも精神的にも、社会的にも強者である。がしかし、僕のような薄給の気狂い男が癇癪を起し、彼不在の自宅にナイフを一丁持って押し入って、妻と子を人質として立て籠もった場合、どうなるだろうか?
結論はすぐに出る。強者は降伏する。それは僕が恐ろしいからでも何でもない。僕なぞ彼の膂力をもってすればワンパンでブチのめせるからだ。彼が負けるのは、弱者である妻と子を愛しているからである。愛ゆえに人は脆くなり、愛ゆえに人は強くなる。ここに、「弱肉強食」では済まされない人間社会の、宿命にも似た哀愁を感じる。