都会と田舎

都会に瀰漫している無機質・無関心の空気感を、隔てられた彼方の地方から夢想して、それに心を奪われてしまう人は多い。
地方に住みながら、地方をこきおろしている人の姿を見ると、自己嫌悪とよく似ているなという感じがする。都会に憧れる人間が往々にして若年層であるのを鑑みると、この感覚はなかなか間違っていないように思う。
林立するビル群や、交差点を行き交う人々の中で、ただ自分だけの生活に没頭し、何者にも阻まれず、狭い都会で思いっきり羽根を伸ばして自由に生きたいと願うのは、別に不自然な感情ではないと思う。地方は何かと不便だし、見ようによっては、都市生活から産まれた文化のおこぼれを啜って生きているようにも思えるからだ。

さて、金沢。僕の住むこの街は、言わずもがな地方都市で、東京を大都会として考えたときに『その他諸々の地方都市、田舎』に分類される、何の変哲もないごくごくふつうの街である。
僕も若さの必修として、都市生活に憧れたことはあった。他の人のそれとはまったく程度の異なる、微々たるものではあったかもしれない。それでも、無機質なコンクリートとプラスチックの品々に辟易しながら、暗くて狭いワンルームでカップ麺を啜り、サトウのご飯をレンチンする日々を切望したこともあった。
けれど僕は、そんな夢想が戯れであることは承知していた。僕は別に金沢を出たいと強く思ったことも無かったし、それに、何をやるにしても、別に東京でなければできないなんてことはないと、おぼろげながらに考えていたというのもある。
僕は金沢が好きだし、この街で育ってきたことに誇りもある。たしかに田舎、たしかにその他諸々の地方都市に数えられるかもしれないけれど、でもそんなことと僕の生活は何の関係もない。この僕、かけがえのないこの僕を産み育て、そしてかけがえのない人たちとの邂逅をもたらしてくれたこの金沢という街を、愛さずして愛を語れるはずもない。

都会と田舎について考える時、僕はどうしてもSとIの姿が浮かぶ。少し紙面を割いて、両名がどんな風にして都会と付き合い、また金沢と付き合っているのか、参考にしてみようと思う。
まずS。彼は一口に言って、俗物である。地主の息子として育ち、不自由なくそこそこの放蕩生活を送るうち、むらむらと地方コンプレックスが湧き上ってきたとみえる。大学への進学を機に関東へと移り住んだ。(この時の理由は、「金沢に住んでいてもダサいから」だったように思う)
しかし、関東での生活は1年ほどで頓挫。彼は青い顔をして金沢に戻ってきて、ほどなくして結婚し子供をもうけた。こないだ久々に会った時は、生活に追いやられた男の、どうしようもない負のオーラがめらめら立ち昇っていて気の毒だった。
次にI。彼もSと同時期に関東へと移り住み、今の今まで上手にやっている。なにか喫緊の心配事がある風には見えず、たまに金沢に帰ってきたときは、関東に住む以前と何も変わらないようにして大笑いしている。ウーバーイーツだのなんだのといったものについては、彼の土産話がきっかけで知った。彼の話の多くは建設的で、会うたびに進捗が更新されていく。近々、今の会社で学んだノウハウを活かして独立をしようと考えているらしい。はてさて、この両名の違いは何なのか。

思うに、Sは”田舎=ダサい”という固定観念に内包される形でアイデンティティが存在している。これは言い換えれば、都会にさえ住んでいれば、自分は無条件に「何者」かになれる、という考え違いである。よくある話だ。マジでよくある。それはいいとして、では彼は何者になれると錯覚したのか。
田舎に住んでいるとよく分かることだが、田舎の若い人というのは、都会の文化のおこぼれを啜って生きているという強い実感がある。白痴の大阿呆なら、希釈されまくった田舎の文化それがオリジナルだと頭から思い込み、貧乏くさい放埓に身を投じることもできるが、彼は自分なりにいろいろと考えて、文化の中枢に行きたいと考えたようだ。それに、単なる放蕩生活でも、都会でやると一種のファッションみたいになってかっこいい、とでも考えたのかもしれない。
文化の中枢に行けば、927万人の「クリエイター」に紛れ込んで、微力ながら自分も文化の担い手になることができる。きっと彼はそう考えて関東に行ったのだろう。でも彼を迎えたのは、無機質で無関心なコンクリートジャングルと、いつ訛りが出てしまうかとビクビクしながら会話するみじめな自分自身だった。それで彼は帰ってきた。

Iは、関東に住みながらも、常に金沢を意識していた。そして都会を「ツール」として「活用」していたように思う。自分の根が張っている、幹があるのはまさにここ、金沢であり、関東へは枝を伸ばしたに過ぎない、と、そういう風な実感が彼の中にあったのではないかと思う。植物が枝を伸ばすのは、たぶん光合成を効率良く行うためとかそういうことで、人間で言えばそれは教養であったり知識であったりする。心がここにあるからこそ、安心して都会に身を置くことができる。故郷とは本来、そういうものなんじゃないかなと思う。何かを愛していなければ、何かを愛することも決してできない。ありのままの故郷を受け容れることは、自分自身を受容する事ととても似ている。

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