sekaikan

人と何かを共有したいという感覚がきわめて希薄である。むしろ、自分の中で育まれた考察は自分だけのものにしておきたい。誰が何かをどう見ようが別に興味はないし、他者の見地から得られるものにも興味がない。
作品を媒介にして他者と感覚を共有するということに違和感を感じる。「万言を連ねなければ何事も解せない」なんていうのは、行儀が良すぎて気持ち悪い。そういう清潔な理念はAIのプログラムに組み込んで、人間は相変わらずクソみたいな愛憎劇に身を投じて1万年後にでも滅びるのが関の山だと思っている。本能の類を退けて、後付けの教養や知識をこそ本質だと考えるのは無理がある。無理はあるがきっと誤ってはいない。ただ僕はそれを選ばなかったまでだ。
知性に対してコンプレックスがないといえば嘘になる。そもそも、知性とは何ぞや、という問いへの解もまだ保留の段階であるから、コンプレックスを抱くことそのものがお門違いではあるのだが、兎も角、賢い人間になりたいと常々思っている。この「賢人」は僕だけのものであり、それは決して、いつでも最適解を選べるように選択肢を広げておくだとか、穿った見方を悪として、究極、自分というフィルターを取り払ったニュートラルな視点から物事を観察するであるとか、算数ができるとか、そういうのではない。僕はそれを賢者とは呼ばない。単に道具の扱い方を心得た人と思う。たくさんの道具を持てばそれだけ有利、この原始的な考え方は、ヤクザの本質が暴力であるところと奇妙に合致する。どれだけ頭が良かろうとも、どれだけ資産を持とうとも、絶対的な暴力には決して敵わない。それはとても悲しい力だ。僕は悲しい力に興味はない。浪漫を蔑む輩を軽蔑している。
僕はなまけものだから、向上心を自分の中のデバッガーに丸投げしている。現行のシステムで上手くいかない場面があれば、デバッガーが逐一教えてくれる。僕はこのデバッガーを殺したいくらい憎むときもあれば、気が狂うほど愛して抱擁したいときもある。生きることは難しい。異論は決して認めない。生きることは難しいのだ。