草案の草案

現在所有している独自ドメインのサイトは2つ。ここと、blur.me。それぞれ日記とポートフォリオ。
考えていたことがあって、5月半ばの日記でもちらと触れたけど、主に文芸を趣味にしている人を何人か集めて、独立したサイトを設立して運営したら面白そうだなと考えている。ここにその草案を記しておく。

管理者は僕、以下寄稿者もしくは投稿者

WordPressは、複数人での運営も可能である。運営者はそれぞれに権限が与えられており、サイトの根幹に関わる部分を触れるのは管理者のみ。投稿をするだけなら寄稿者か投稿者の権限で十分である。
ちょっと調べてみたところ、どうやら複数人での運営はまったく難しいものではないらしい。僕が管理者となってライターの意向を汲み取り、円滑に仕事をこなしさえすれば安定してエントリを産出できる。ほとんどスマホしか触ったことがないが、最低限タイピングぐらいはこなせるといった人であれば十分メンバー入りは可能。
最悪、原稿(かっこつけてこういう言い方をする)さえもらえれば、あとはこっちでどうにでもなる。ライターの負担は最小限に留まり、純粋に「書きたいものを書く」ことに集中できる。が、無論、CMSに強い人が後々メンバー入りするようなことになれば、管理者を僕と兼任するのでも良いと思っている。

方向性

特になし。テーマもなし。愛好会的な感じで、ただ各々が好き好きに書きたいものを書いてくれればそれで良い。言うなればこのスタンスがそのまま方向性。
ジャンルをはじめから固定する場合、収益化を視野に入れることができるというメリットもあるが、金が絡むとPV数を稼げる文章を書く人・あんまり稼げない人との差が産まれ、渦を産み、長期化の末ややこしい事態が浮上する可能性がある。そうなるとサイト運営の根本を揺るがしかねない。別に僕はライター同士を競わせたいわけじゃない。無料ブログサービスというつまらん軛から、書くものを「作品」にまで昇華させたいだけである。だから極論、SEOも完全無視で、PV数も測れないようにしてしまった方が、余計なことを考えなくて済むような気がする。

デザイン面

特にこだわりはない。このブログをもう少しお洒落にしたような感じにしておけば、それで十分だと思う。文章が主体だから、とにかくユーザーが散策しやすいデザインを目指したい。実装する機能としては、ライターごとにエントリをソートできるアーカイブ機能、タグ機能、ライター個別のプロフィールページ、等。参加する人は、タダで自分のホームページもどきが手に入ると思ってくれれば良い。自分の書いたものがポートフォリオ的にザッと一覧表示されるのはなかなかカッコいいぜ。

アイデア

ライターごとにエントリが溜まってきたら、一括で製本して販売、というのもおもしろいなと思う。もちろん装丁なりなんなりは各ライターの好き好きにやってもらって構わない。発行に際の僕の仕事は、収録予定の原稿を.txt形式にまとめてライターに渡す、ぐらいのもんだと思う。実際に発行されたら、外部でSHOPページを作成してそのURLをライタープロフィールと紐づけておけば良い。
あと、ライターでソートするのも良いが、タグで関連づけられたエントリをまとめて製本するのでもおもしろい。同人誌みたいな感じで。

課題

#1

まず本当に人が集まるのかということ。大規模なものは今のところ考えていないので、僕を含め3〜5人くらいでの運営がいいとこかなと考えている。ゆくゆく巨大なサイトになっていくとしたら、それに併せて紹介制で人を増やしていけば良い。

#2

サイトを運営していくということは、それなりの更新頻度が要求される。毎日とは言わずとも、せめて1週間に3〜5エントリくらいは欲しい。ライターが3〜5人いると想定して、各々が1週間に1エントリ書き上げればこの数は達成できるから、それほど負担はかからないと思う。まったく誰も更新せず、最終的に僕1人が半泣きでエントリを産出し続けるみたいなのは勘弁してほしい。せつないから。
書きまくられるのは逆に歓迎で、エントリのストックがあれば足りない週をストックで補填できる。それぞれみんな予定がある中で寄稿してくれるのだから、事情は出来る限り斟酌したい。

#3

ユーザーとの交流をどうするか。たとえばいいね!とかコメントみたいな機能を実装すると、絶対に人気のある人と無い人との差が産まれてくる。これは絶対に避けられない。すると必ず嫉妬が産まれる。これはよくない。
方向性の項でも少し触れたが、こうした差を産む機能は徹底的に排除するのが良いと僕は考えている。けだしそうしたリアクションから創作意欲を得る人がいるのも事実で、これはどうしよう。
ではこうしよう。サイトを「壇上」という風に考えることにして、書いたものに対しての賛辞は、まったく別のところで受けてもらう。これが今のところ一番合理的ではないかと思う。つまり、Aという人が書いた記事に対して、それを読んだユーザーは、サイト内では一切リアクションすることができないが、Aが自分のエントリをTwitterなりインスタなりTumblrなりに投稿すれば、そっちの方でファンと交流できる。これなら、少なくともサイト内では明確な差が生まれなくなり、ややこしい情念が産まれることもない。

【Netflix】Love, Death & Robots – レビュー

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『ラブ、デス + ロボット』という、全18篇からなるショートアニメ作品群を、こないだの三連休使って全部見たので、印象に残ったやつを書き残しておく。ネタバレ注意。

・目撃者 “The Witness”

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香港のホテルに泊まっていた女は、偶然にも向かいのアパートで殺人を目撃してしまう。一方、犯人の男は彼女に見られたことに気づくが、同時に自分が殺した相手の顔がどういうわけか彼女とそっくりであることに気づき、彼女を追いかける。

ちょっとクセのある3DCGで描かれた作品。カメラワークが秀逸で、臨場感があってすこぶる良かった。絵のタッチも良い。やたらテカテカしたジャケットの質感とか、追う男と追われる女の息遣いとか、圧倒的な物質感でもって劣情を煽ってくるおっぱいとか。ストリップクラブにて、裸でクネクネ踊る女の陰毛までキチンと描いているのを見た時はなんか感動した。あぁ描くんだ、誤魔化さないんだ、みたいな。
街全体に立ち込める倦んだような気配と、それとは無関係に逼迫した環境に置かれている男女。このコントラストも良くて、グイグイ惹きこまれる没入感があった。
こういう作品の場合、ストーリーはあってないようなもんだけど、この作品においてはストーリーも絶妙な余韻を残してくるのでそれも良かった。こういう場合は考察とかせず、不思議な余韻に浸っておくだけで十分だと思う。

 

・ラッキー・サーティーン “Lucky 13”

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乗っていた者全員が任務中に死亡するという不吉な航空機”ラッキー・サーティーン”のパイロットに任命された海兵隊員コルビーは、初めての任務で敵の砲火にさらされる事態に陥るも、機転を利かせた操縦で見事部隊を救い出すことに成功する。
その後の任務で、彼女は一人の死亡者も出すことなく戦場から部隊を帰還させ、ラッキー・サーティーンはいつしか幸運をもたらす航空機として扱われるようになった。

こちらはより実写寄りの3DCG作品。純粋な娯楽として愉しめるだけの迫力があって良かった。ドッグファイトの緊張感たるや。
映像も良かったけど、僕が心を惹かれたのはそのストーリーと構成。作中、何度か、ラッキー・サーティーンに搭載された記録用カメラ映像を通して、コルビーや他の隊員たちの会話が映し出される。つまり、この機体は人の会話を「聞いて」いたという風にとることができる。
ラッキー・サーティーンが撃墜され、撤退を余儀なくされたコルビーが、「ほんとうにごめん」と言いながら自爆装置を起動するシーンは、ポンコツベスパを愛する僕の感覚と通づるところがあって感動した。そうだ。機械はきっと生きてるんだぜ。
臨終を迎えたラッキー・サーティーンが、わざと自爆のタイミングを遅らせて、敵を最大限引き付けてから大爆発するシーンも感動した。産まれてから死ぬまで、愚直に職務を全うした、まことに素晴らしい機体と、それを愛した女性。いい話だった。

 

・ジーマ・ブルー “Zima Blue”

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青一色の壁画で名をはせた芸術家ジーマの招待を受けたジャーナリストのクレアは、彼の口から、今まで謎に覆われていた彼自身の生い立ちを聞かされる。
彼はかつて、ある一人の女性が作り出したプール清掃用のロボットだった。

ものすごくクセの強いタッチで描かれた作品。なんとなくアメコミチックにも見える。
絵柄もさることながら、とにかくこの作品はストーリーが最高だった。
謎に包まれた天才芸術家ジーマの最後の作品は、原始の再現。自身が作品の一部となり、そこで自己は完結する。僕はこの作品こそがまさしく「ラブ、デス + ロボット」ではないのかと思う。まず彼を作り出し、愛した女性がおり、愛から産まれ愛に生かされたジーマは真に生きて、やがて真の死を手にする。それは決して恐ろしいものでもなんでもなく、ただただ途方もない安寧だと僕は思う。真の死は生の反対などでは決してなく、これからも永遠に続いていく生、魂の一部でしかないと思う。
作品全体がひっそりとしていて、そのほとんどがジーマの独白。ゆっくりした語り口調はなんだか切なくて、優しくて、とにかく最高だと思った。
「ジーマ・ブルー」の意味が、ジーマの最古の記憶、つまり、清掃していたプールのタイルの色だったというのも涙を誘った。悟りの境地に達しても、人(ロボットだけど)は郷愁に胸を焦がすのだなぁ…。

全18篇中、駄作と言えるのは1篇だけで、どれもこれも佳作揃いで面白かった。
エログロ系、というと、そこに作品の主軸を置いてしまって、無理にエロくしたりグロくしたりしてしまいがちだけど、そこに頼らず、エログロをちゃんとしたエッセンスとして使ってるのが良かった。ドロヘドロみたいにほとんどのコマが血と臓物でグッチャグチャだったり、エロといっても勃起もんの濡れ場とかじゃなくてせいぜい女の子の裸が描かれていたりといった、「がんばったで賞」的残念さが無くてよかった。いやまぁドロヘドロはドロヘドロで面白いけど。
「ラブ、デス + ロボット」を簡単に翻訳するなら、「エロ、グロ + ロボット」。ロボット要素いらね~と見せかけて実はこれがSFを構成する重要な要素だったりして、アニメっていうのもなかなか奥が深いなぁと考えさせられた。

苦しみ

たとえ愛している人とでも、共に生活するのがこんなにも難しいものだとは考えてもみなかった。

僕は魅力の無さが災いして、これまで女性というものと関わることが少なかった。今の奥さんは、初めて付き合った人でもある。付き合って、3年ぐらい経った後、結婚した。当時22歳。まだまだ激情に流されやすい年頃で、先のことなど何も考えていなかった。
結婚生活は今年で4年目に突入する。奥さんは日々の生活に何ら不満は無いようだけど、僕はそれなりに窮屈さを感じている。僕にとっては法律なんかよりよっぽど強力な奥さんの「愛」が、僕を生活の安寧に縛り付けるのである。
僕の考え方は、ものすごく歪んでいる。また、飛躍してもいる。だから人の理解を得られない。それは別に構わない。僕のことを理解できるのはセンスのある人間だけだと信じているし、また事実その通りであるということを、この目で見てきたからだ。
万人の理解などいらない。けれど、自分の愛する人に自分のことが理解されないと言うのは、結構辛いものがある。それは別に、どちらかが一方通行の関係というのではない。僕は僕なりに、奥さんは奥さんなりに愛を表現しているに過ぎない。
たとえば僕は、こう考えている。僕は奥さんを心の底から愛していて、故に僕の愛は僕自身にのみ根付いている。たとえ奥さんの考え方が180°変わって別人のようになってしまっても、僕自信に芽生えたこの愛が潰えることはない。奥さんが亡くなってしまっても、また、別の人と一緒になろうとも、僕の愛が死ぬことは無い。これは絶対不滅のものだ。
僕の中にこの愛があるうちは、僕は不義理を「働かなくて済む」。たとえ異性と仲良くなったとしても、その人を本気で好きになるようなことはない。僕が本気で好きなのは奥さんだけで、だからこそ僕はその愛を信じるうち、はじめから友達というスタンスで安心して異性と交流することが出来る。
とはいえ、人と人が付き合う上で最低限のマナーというものは存在する。たとえば異性と二人っきりで会うとか、そういうのはアウト。不貞もアウト。もちろん、二人っきりで会おうが不貞を働こうが、僕の中の愛が潰えることはありえないけれど、そこまで信じろ、理解しろ、というのは、もう対人の域を超えている。
奥さんの価値観では、異性と連絡を取り合ったら、その時点でもうアウト。僕とその相手がどれだけクリーンな関係であっても、そんなことは関係なく、一括でアウトである。だから僕はLINEに入っていた10数件の女の子の連絡先を、ある時すべて削除した。まぁもともと連絡など取ってなかったし、何の痛手も無かったけれど。
思うに、奥さんは、僕の中の「男性」を独占したいのだと思う。僕が他の人に向けて放つ「男性」、それに対して何か本能に起因する生理的嫌悪感を抱いていて、理屈云々じゃなくてもうとにかく身体が受け付けないのだと思う。感覚として表現するなら、眼前にゴキブリを置かれるようなものだろう。
僕は別に、奥さんが男と連絡を取り合ってようが、二人っきりで会っていようが、そんなことは何も思わない。奥さんの心の中には間違いなく僕に対する愛があるはずだし、それがある限り彼女が誰かと恋愛関係に陥るなどということはあり得ないと考えているからだ。それは彼女も承知していると思う。
無論、彼女が誰かを本気で好きになってしまう可能性は、無きにしも非ずだ。しかしそうなった場合でも、僕にできることは何もない。嫌いになれ、関係を断て、と迫るのは、僕の真意ではない。それは夫婦間、ひいては対人関係に於けるルールの一つに過ぎないのであって、僕の気持ちとは何の関係もない。彼女の中の愛が萎んでしまったのなら、僕に出来るのはその事実を受け容れる心の準備をしておくことだけだ。確かにそれは悲しいかもしれない。しかし、どうしようもないことだ。僕は奥さんを丸ごと全部愛しているからこそ、とことん彼女を束縛する権利を持たない。

では僕の掲げるこの理論が白日のもと堂々と大通りを歩くようになった暁には、どんな夫婦生活が世間一般とされるのか、考えてみる。
互いは互いに干渉しあわず、ただ各々の心に芽生えている愛を信じ合い、夫婦としてではなく、一個人として生きる。ーーおそらくこうなるだろう。
そして、僕は辟易する。こんな夢物語のような話は、たとえ一億年待っても絶対に来ない。女は嫉妬から逃れられず、男は自由を求めて彷徨い続ける。そのカルマをいかに理性で以て殺せるかが立派な人間の定義であるとされている以上、夫婦生活とは、いかに器用に嘘を吐き続けるかに過ぎない。男は本当は、あの子この子を抱きたいと考えていて、女は女で、この人がよそに流れていかないようにとじっと見張っている。人に対する猜疑心が根底にある、いかにも人間らしい、低俗で廉価な人生だと思う。こんなものの何が共同生活だ。何が夫婦だ。クソくらえ!クソくらえ!!

僕はとことん人を信じている。それの何が悪いのだろう。なぜ僕は人を疑わなくてはいけないのだろう。或る時僕が興味本位で奥さんを疑ったら、彼女はとても嬉しそうにしていた。僕はもう嫌だ。嘘を強要されるこの人間生活が、器用さを求められるこの人間生活が、嫌で嫌で仕方がない。そしてこれを理解してくれる人は、この先も絶対に現れない。永遠の孤独と絶望。僕は奥さんを愛しているのに、彼女はそれを行動で示せと言う。彼女が信じるのはただ僕の行動、形而下的なものだけであって、心は常に行動の後ろについてくるものと考えているらしい。どうして、どうして分かってくれないのか。それとも、「女」である彼女にこんなことを求めるのは、やはり酷なのか。僕も彼女を、「女」として扱わなければいけないのか。強くて賢くて、芯の通ったあの人に、僕は「女性」を見出さなければいけないのか。嫌だ。僕が見ているのは彼女の魂だ。性別なんてどうでもいい。ここに居るか居ないか、生きているか死んでいるかもどうでもいい。僕はただ彼女の魂を愛している。それは絶対に不滅、僕が死んだ後も永久に残る。どうしてみんなそうじゃないんだ。どうしてみんな、人の皮ばかり信用しようと努めるんだ。僕がこんなに悩んでも、君たちは一向に考えを変えてくれない。もうたくさんだ。もう自分の中に芽生えた愛に、自分の肉体が追い付かないのは嫌だ。こんなことならいっそ、僕を白痴か天才で産んでくれればどれほど良かったか。

僕は今選択を迫られている。「金丸」で生きるか、「旦那」で生きるか。金丸で生きるなら、僕はもうどんな女性をも伴侶にする権利を持たない。旦那で生きるなら、僕は僕である必要は無い。

誰か助けてほしい。