写真について

とりあえず直近撮れたものでお気に入りのものをギャラリー表示してみる。すべてOLYMPUS M-1で撮影。フィルムはバラバラ。Kodak ColorPlus200と、FUJI業務用100、Lomography CN400、モノクロのものは多分Kodak T-MAX100。

これらの写真に、共通する部分があるかないかは別として、とにかくわざとらしいものは撮りたくないなあと思いながらシャッターを切っている。わざとらしい、言い換えて、分かり易いもの、被写体として優れているもの、にあまり気を取られすぎないように気を付けてはいる。
「関口食料品」の写真とか、誰もいない環水公園の角っこの方を撮った写真とか、が特にお気に入り。撮るものすべてにそこはかとない寂寥感が欲しい、とは考えている。だからあんまり人間を被写体に据えたり、人混みを撮ったりしたくはない。人間というのはどうしても、被写体としてはすごく分かり易いから、ついついシャッターを切ってしまいたくはなるのだけれど。
焚火の写真とか、木の幹の写真はだいぶ分かり易い部類。映りも良いし、寂寥感というよりはむしろ郷愁の類が込められている。光のせいか。フィルムカメラに触れてはじめに思ったことは、光と影の描写がほとんど目視に近いということ。光も影も、二次元的な描写を超えて、真に迫ってくる感じがある。根暗だもんで、あんまりこういうこってりしたものは得意じゃないのだけれど、視野を広げるという意味では、たまに撮るぐらいは許されてもいいだろう。
浅野川高架下から撮った近所の写真、立体駐車場で撮った水たまりの写真、は寂寥感が上手に出ていていいと思う。特に立駐の水たまりモノクロ写真は、意味の分からなさも相まって結構気に入っている。奥の方に薄らぼんやり映り込むマンションの外部階段で、なんとなく風景写真だというのが分かる程度。こういうのは良い。

結論として、僕はどういうものを撮りたいのか、どういうものに心惹かれるのか。
たぶん、「意味不明なもの」、「意味がないもの」、「被写体らしきものが見当たらないもの」、だと思う。少し前、自分の求める被写体がどうやったら見つかるのだろうかと考えて、視線の動線の中途を意識すれば良いのではないかと思ったことがある。人間の視点が常にAを起点にBを終点とするものだとして、そのAとBを結ぶA-B線上のどこか、に自分の好きな被写体が隠れているのではないかと。
それで行くと、猫ちゃんを撮った写真とか、焚火の写真とか、女の子のチャリを撮った写真なんかは、視線の終点に位置するものだからわざとらしさが拭えない。逆に立駐の水たまりとか、環水公園の角の写真とか、関口食料品とか(これは限りなく終点に近いが)は、視線を動かす動線上にあるもので、だからだいたい意味が分からない。たとえば立駐の写真なんかは、視線をもっと上にあげれば雨露に濡れそぼった街が見えてくると思うし、公園の写真は手前に向かって視線を引けば公園全体を俯瞰することができる。でもそういうのはわざとらしい。公園の写真に関しては、どうにか人が入り込まないように細心の注意を払ってシャッターを切った。それぐらい、意味を写真に持たせたくない。眼前の風景にいちいち意味がないのとおんなじように。
被写体というよりは、自分の視線をそのままトリミングするといった具合に考えてみれば、もう少しいい写真が撮れるのかもしれない。「写真を撮る」という意識を頭から排してみて、徹底的に「見る」ことに集中してシャッターを切ってみよう。